♪海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ
重雷装艦の戦術思想
日本海軍は明治末から、米海軍を仮想敵として戦略を立案してきた。そして最終的にまとまった基本構想は、太平洋を攻め渡ってくる彼の艦隊を、潜水艦と飛行機で漸減し、彼我の勢力差を少しでも縮め、その後に西太平洋上で艦隊決戦を行なうというものであった。その艦隊決戦の直前、米渡洋艦隊の陳列を混乱に陥れ、しかも相当数の艦艇を撃沈しようという作戦の一つが遠距離隠密魚雷発射戦で、本作戦の主役が重雷装艦なのである。日本海軍が遠距離隠密魚雷発射戦を考えるようになったきっかけは、昭和10年11月28日、九三式魚雷1型が制式化されたことにある。周知のようにこの魚雷は61センチ酸素魚雷で、490キロの炸薬を頭部にそなえ、36ノットで40,000メートル、48ノットで20,000メートルの射程があり、しかも無軌跡という大きな特長があった。すなわち遠距離隠密魚雷発射戦は、従来の肉薄必中を期する魚雷戦とはかなり様相を異にするもので、主力艦の砲戦距離よりも遠いところから、隠密戦に多数の魚雷を発射するという意表をつく戦術であった。したがって日本海軍は、このような戦術を米海軍に覚えられることを極度に警戒していた。重雷装艦の構想が具体化するのは、昭和12年度の出師準備計画からで、大井、北上、木曽の3隻の軽巡が重雷装艦への改造予定艦とされた(実際に改造されたのは大井と北上の2艦)。日本側はこうした動きを米国側に察知されないように、平時から極秘裡に準備を行ない、出師準備発動後に改造工事に着手するとしていた。改造工事の内容は、前部の14センチ砲だけを残し、その他の兵装を撤去したうえで、九三式魚雷用の61センチ4連装発射管10基を整備するというものであった。遠距離隠密魚雷発射戦を行なうときの重雷装艦の接敵序列は、前衛(高速戦艦戦隊、巡洋艦戦隊、水雷戦隊、重雷装艦戦隊からなる)の最後尾につく。遠距離隠密魚雷発射は前衛の高速戦艦戦隊を除く全艦が行なうのだが、発射した魚雷の敵艦隊への到達時機は、主隊(戦艦戦隊を中心とする部隊)の砲戦開始直後が望ましいとされていた。同航戦の場合、最高指揮官の命令が下ると、前衛の高速戦艦戦隊は増速しつつ、味方遠距離発射部隊の最良射点への進出を掩護する。そして前衛隊の重雷装艦をふくむ巡洋艦部隊は敵主力の斜め前方に進出し、おおむね35,000メートルの距離で第1次発射、引き続いて重雷装艦をのぞく巡洋艦戦隊は第2次発射を行なう。発射魚雷数は約230本という数に達する。以上が遠距離隠密魚雷発射戦のシナリオだが、太平洋戦争では重雷装艦の出番はめぐってこなかった。
大井・北上の重雷装艦への改造
北上と大井の重雷装艦への改造状況を述べる前提として、どのような経緯でこのような艦種が発想されるに至ったかを紹介しておこう。なお、この重雷装艦という呼称は、魚雷発射管を多数装備した状態を指すのであって、正式な艦種呼称は二等巡洋艦(いわゆる軽巡)のままである。日本海軍は、優勢な米渡洋艦隊を西太平洋上に迎え撃ち、潜水艦と飛行機で敵を漸減しつつ艦隊決戦に持っていくというシナリオを描き、そのための艦隊整備に腐心してきた。艦隊決戦の直前に米渡洋艦隊の陣列を混乱させ、かつかなりの艦艇を撃沈するために考え出された戦法の一つに、遠距離隠密魚雷発射戦がある。重雷装艦はその主役を演じるもので、かつ老齢化した五、五〇〇トン型軽巡の活用という点でも意義があった。日本海軍が遠距離隠密魚雷戦を発想したのは、六一センチ酸素魚雷の実用化がそのきっかけとなっている。その第一号である九三式一型は昭和十年十一月に制式化されたが、この魚雷は四九二キロの炸薬を充填し、四〇ノットで三二、〇〇〇メートル、四八ノットで二二、〇〇〇メートルの駛走距離を有する画期的なものである。そのうえ酸素魚雷は無航跡であった。従来の魚雷戦は、駛走距離があまり長くなかったこともあって、肉薄必中方式だったが、酸素魚雷の実用化は、かなりの遠距離から隠密裡の発射を可能としたわけで、同時に多数の魚雷を発射すれば大混乱をきたすことになるわけだ。日本海軍はこの戦法を米側にさとられることなく、完成に努めたのである。重雷装艦の構想が具体化したのは、昭和十二年度の水師準備計画からである。重雷装艦への改造の白羽の矢が立ったのは北上、大井、木曽の三隻、いずれも球磨型軽巡である。改めて説明するまでもなく、水師準備というのは、一旦緩急ある場合に備えてのもので、重雷装艦の場合、平時から隠密裡に準備をし、出師準備発動後、急速な改造工事を行なう手筈となっていた。前記三艦の重雷装艦への最終的な改造要領は次のとおりである。後部の一四センチ単装砲三基を撤去し、同砲は前部の四基のみとする。対空兵装は二五ミリ連装機銃二基、魚雷兵装は在来のものを全廃して六一センチ四連装魚雷発射管一〇基とする。魚雷攻撃力は片舷二〇射線、両舷で四〇射線というものすごいもので、世界的にも例のない重雷装艦であった。装備する魚雷発射管の制式名は九二式四連装三型と称し、使用魚雷は九三式一型改二である。次発装填装置はなく、したがって魚雷搭載数は四〇本、まさに魚雷による槍衾(やりぶすま)の構成である。昭和十五年十一月、出師準備計画第一着作業が発令され、北上と大井は重雷装艦へ改装されることになったが、木曽はなぜか外されており、ついに同艦の重雷装艦化は実現しなかった。北上の重雷装艦化は佐世保海軍工廠、大井のそれは舞鶴海軍工廠が担当することになり、前者は昭和十六年一月から十二月にかけて、後者は同一月から九月にかけて施工された。兵装の装備状況は前に記したとおりだが、じつはその前段階に一四センチ砲をすべて撤去し、兵装は一二・七センチ連装高角砲四基、二五ミリ連装機銃四基、六一センチ四連装魚雷発射管一一基とする計画のあったことを書き添えておこう。当然のことながら、実現しなかった兵装の方がより近代戦にマッチしていたが、膨大な工事量を消化しなければならなかった当時としては、少しでも工数を減らしたかっただろうし、また一二・七センチ高角砲の生産不足なども関係して日の目を見なかったものと思われる。さて話をもとに戻そう。改造工事にあたっては、艦橋構造物の拡大、艦首楼の延長、中央船楼の廃止、後部甲板室の改正などもあわせて実施し、上甲板両舷には各一・六メートルの張り出しを設けて、また装載艇の格納場所は中央配置の廃止にともなって後部甲板室上に改められた。重雷装艦の戦術シナリオは、前衛(高速戦艦戦隊、巡洋艦戦隊、水雷戦隊、重雷装艦戦隊からなる部隊)の最後尾につき、主隊(戦艦戦隊を中心とする主力部隊、)の砲戦開始直後に魚雷が敵艦隊に到達するように発射するというもの。同航戦の場合は、高速戦艦部隊の掩護をうけつつ、前衛の重雷装艦を含む巡洋艦戦隊は敵主力の斜め前方に進出し、約三五、〇〇〇メートルの距離で第一次発射、引き続いて重雷装艦を除く巡洋艦戦隊が第二次発射を行なう手順となっていた。北上と大井の両艦は、昭和十六年十一月二十日付けで第9戦隊を編成して第1艦隊に編入されたが、周知のように多年描いていた米渡洋艦隊の迎撃戦の機会はついに訪れなかった。ちなみに重雷装艦の公試状態排水量は六、九〇〇トン、速力は三一ノットであった。
北上の回天母艦への改造
別稿のように、北上は昭和十六年に重雷装艦に改造され、来るべき米海上決戦では緒戦期に重大な役割を演ずることになっていた。しかし、遂にその機会は来ず、戦局は次第に日本側に不利になっていき、輸送艦としての任務がクローズアップされてきた。本艦はそうした経緯をへて、戦傷を機に回天母艦に変身することになったのである。昭和十七年八月、ガダルカナル島をめぐる戦闘の開始とともに本艦は大井と輸送任務に従事することとなり、両舷の魚雷発射管を一基ずつ撤去し、一四メートル特型運貨船(いわゆる大発)数隻を搭載するように改造された。この年の十一月十九日に至って大井とともに編成していた第9戦隊は解隊となり、いっそう輸送任務に専念することになった。このころ輸送能力を強化するために、魚雷発射管はさらに片舷二基ずつ減らされて一四メートル特型運貨船を増載しているが、その詳細は不明である。昭和十八年五月に至って本艦と大井は、本格的な高速輸送艦に改造されることになり、具体的な計画が立案された。その内容は結果的に次の回天母艦改造の布石となるので、煩瑣をいとわず箇条書きにして紹介することにしよう。
(1)四基あった主機の半数と一二基あった主缶のうち四基を撤去する。空間となった前部機械室と第1缶室は輸送物件の格納所と清水タンクに改める。第1缶室の廃止により1番煙突を撤去し、速力は約二九ノットに減ずる。
(2)従来の艦橋構造物を撤去し、位置を少しずらせて新型の艦橋構造物を設ける。
(3)一四センチ単装砲を全廃し、一二・七センチ連装高角砲二基と二五ミリ三連装機銃一〇基を装備する。六一センチ四連装魚雷発射管は二基を残して他はすべて撤去する。
(4)輸送物件の搭載能力を約三〇〇トンとし、一四メートル特型運貨船四隻と一〇メートル特型運貨船(いわゆる小発)二隻を搭載する。輸送物件荷役用に水上機母艦時代の千歳型装備のクレーンを取り付ける。
これらを実現するとなると、かなり大規模な改造となり、わが方にとって一段と不利になってきている戦局を考慮した場合、無理との結論に達し、計画はついに見送られてしまった。その後、本艦は昭和十九年一月二十七日、英潜水艦テンプラーの雷撃をうけて損傷し、シンガポールで応急修理を行なったのち佐世保へ帰投した。本格的な損傷復旧工事は佐世保工廠で同年八月から開始されたが、これを機に回天母艦に改造されることになった。改造要領は先に見送られた高速輸送艦改造計画をベースとし、それに回天搭載関係の改正をくわえたものである。回天の搭載は、本来、基地への輸送を目的としているが、洋上会敵の場合にはそれを航走しながら発進させ、攻撃にあたることも可能とされた。なお改造設計は艦政本部第四部の松本喜太郎技術中佐(当時)が担当した。改造にあたって、すべての砲熕兵装と魚雷兵装を撤去するとともに、被雷損傷した後部機械室のタービン二基を陸揚げし、四軸から二軸に減軸した。減軸にともなって速力は三一ノットから二三ノットに低下している。残された推進軸は外舷軸である。なおタービンの撤去によって空所となった後部機械室は、倉庫に生まれ変わった。船首楼後方には、オリジナルな船体幅一杯の甲板室が3番煙突の直前まで設けられ、そのさらに後方の上甲板両舷は艦尾まで回天の搭載および発進スペースとされた。艦尾は回天搭載数は片舷四基で、全艇発進の所要時間は八分ほどだったという。回天発進の管制は、後部甲板室後端の回天発進指揮所で行なうようになっていた。砲熕兵装は新たに一二・七センチ連装高角砲二基を搭載し、前甲板と後部甲板室上に一基ずつ振り分けた。近接対空火器も二五ミリ三連装機銃一二基、同単装機銃三一基が随所に装備された。艦橋構造物にも改正がくわえられて、同構造物を前方に拡大するとともに、艦橋天蓋部に防空指揮所を新設した。また艦橋構造物トップの六メートル測距儀は四・五メートル九四式高角測距儀に換装し、その前方に四式射撃盤を備えた。マスト関係にもいろいろと改正の手がくわえられた。前檣上部には二二号対水上電探、そのさらに上には一三号対空電探を取り付けるとともに、三脚下部には電探室と思われる箱型構造物を設けた。それから前檣中段のフラットには九二式発射指揮盤を装備した。後檣はまったく更新され、棒檣から三脚檣となり、基部には千歳から陸揚げした再用品のクレーンを取り付け、上部には一三号対空電探を備えた。ちなみに後部機械室から変身した倉庫はこのクレーンのアーム下方にあり、甲板上には大型のカーゴ・ハッチが設けられていた。対潜兵装は重雷装艦となった後に若干備えたが回天母艦への改造に際してはそれぞれがさらに強化された。備えられたのは爆雷投射機二基、同投下軌条二条で、爆雷一八個を搭載した。本艦の改造工事完成は二十年一月だったが、すでに日本海軍の燃料事情にそうとう逼迫しており、回天の発進、揚収訓練もままならなかったという。七月二十四日の呉空襲で至近弾約一〇発により機械室を損傷し、行動不能の状態で終戦を迎えた。
防空巡洋艦となった五十鈴
旧式軽巡を防空巡洋艦に改造して有効に活用するという考えは、英海軍が先鞭をつけたものである。すなわちC級のコヴェントリーとカーリューの改造がそれで、時期は昭和十年のことであった。改造の容量は、従来、装備していた一五・二センチ単装砲五基、七・六センチ単装高角砲2基および五三・三センチ連装魚雷発射管四基をすべて撤去し、一〇・二センチ単装高角砲一〇基と高射装置二基を装備するというもの。コヴェントリーとカーリューの改造後の評価は高く、英海軍は旧式軽巡の防空巡洋艦化をさらに推進した。こうした動きは当然、日本海軍も注目しており、昭和十二年には最旧式軽巡天龍型二隻の防空巡洋艦化が要求されたという。しかし計画は具体化しなかった。また五、五〇〇トン型軽巡数隻の防空巡洋艦改造の計画も検討されたが、これまた実現しなかった。だが苛烈な戦闘が、五、五〇〇トン型の一艦五十鈴(長良型)の防空巡洋艦改造を実現させたのである。太平洋戦争が日本にとって次第に不利に展開しつつあった昭和十八年十二月、本艦はクェゼリン方面での対空戦闘で大損害を被り、トラックで応急修理ののち横須賀へ帰投した。昭和十九年一月二十三日に横須賀へ入港した本艦は、損傷復旧を機に戦時大修理を行ない、あわせて防空巡洋艦への改造も実施することになった。工事は同月末から九月に至る長期にわたるもので、前半は横須賀工廠、後半は三菱横浜造船所が担当した。防空巡洋艦への改造は当然のことながら後半期の工事となった。昭和十九年五月一日、本艦は横須賀から横浜へ回航された。防空巡洋艦への改造にあたって、従来、装備していた一四センチ単装砲七基全部、六一センチ連装魚雷発射管四基すべてが撤去され、メインの砲塔兵装は一二・七センチ連装高角砲三基となり、魚雷兵装は六一センチ四連装二基となった。一二・七センチ連装高角砲は、太平洋戦争当時の日本海軍の標準艦載高角砲で、八九式と称した。砲身長四〇口径、初速七二〇メートル/秒の半自動砲である。俯仰範囲はマイナス一〇度からプラス九〇度、最大射程一四、六〇〇メートル、最大射高九、四四〇メートル、発射速度は一門あたり毎分一四発となっていた。一二・七センチ連装高角砲の配置は、1番砲が前甲板、2番砲が3番煙突後方、3番砲が後檣直後の甲板室上となっており、これらを管制する九四式高射装置が新しくなった。三脚前檣の上に装備された。この高角砲と米海軍標準の一二・七センチ三八口径両用砲を比較した場合、砲そのものは遜色ないと思うが指揮装置や使用砲弾となると明らかに彼の方に分があった。特に砲弾は、彼のVT信管に対してこちらは時限信管と、命中精度が比較にならなかったほどである。近接防空火器は、改造前からの装備分を含めて二五ミリ三連装機銃一一基、同単装機銃五基が装備されたほか、二五ミリ単装機銃据え付け架台一二個も取り付けられ、同機銃は最大一七基搭載できるようになった。これらの三連装、単装機銃とも九六式と称するタイプである。また工事期間中に対空用の二一号電探一基、同一三号電探一基、対水上用の二二号電探一基も搭載した。二一号電探は艦橋構造物のトップ、一三号電探と二二号電探は後檣に取り付けられた。説明が遅れたが、六一センチ四連装魚雷発射管は、旧後部魚雷発射管装備位置に一基ずつ装備された。新魚雷発射管の型式は九二式である。本艦は改造工事中のまま、昭和19年8月20日付けで新設の第31戦隊の旗艦となった。この戦隊は日本海軍初のハンター・キラー・グループ(対潜掃討部隊)で、駆逐艦、海防艦のほか、三座水偵で編成された航空隊(9月1日付けで編入)をも隷下部隊としていた。当初、旗艦には姉妹艦の名取が予定されていたが、同艦が部隊編成の前日に戦没したことと、五十鈴の方が装備も適していることが判明したため急きょ計画を変更して、本艦が旗艦となったのである。なお、本艦の改造工事は9月14日に完成し、ふたたび第一線に復帰して第31戦隊の旗艦任務についた。本艦が防空巡洋艦に改造されたことの意義は、この後の活躍で明らかなものの、それでもなおかつ装備的に英海軍の旧式軽巡改造の防空巡洋艦に劣っていたことは否めない。もっときつい言い方をすれば、本艦程度の改造では、とても「防空巡洋艦」とは呼べないような気がする。それよりこれは本艦というよりも太平洋戦争に参加した日本軍艦すべてについていえることだが、対空防御火網が段階的縦深防御方式をとっていないことである。一二・七センチ高角砲の次がいきなり二五ミリ機銃となるのは問題で、一二・七センチ両用砲、四〇ミリ機銃、二〇ミリ機銃とした米、英両海軍に一日の長があったことは確かである。最後に本艦の対空兵装が威力を発揮した戦闘の一例を、紹介してみよう。昭和20年4月4日、本艦はチモール島に駐屯する陸軍部隊をスンバワ島へ撤収させるため、水雷艇と掃海艇を警戒部隊として輸送の任務についた。6日にチモール島のクーパンで陸兵を乗せ同地を出港したが、同日午後、米陸軍の爆撃機9機が来襲し、輸送部隊を攻撃した。これに対して本艦は巧みな回避運動を行なったばかりでなく、敵機を3機も撃墜するという凱歌をあげている。
日本海軍は明治末から、米海軍を仮想敵として戦略を立案してきた。そして最終的にまとまった基本構想は、太平洋を攻め渡ってくる彼の艦隊を、潜水艦と飛行機で漸減し、彼我の勢力差を少しでも縮め、その後に西太平洋上で艦隊決戦を行なうというものであった。その艦隊決戦の直前、米渡洋艦隊の陳列を混乱に陥れ、しかも相当数の艦艇を撃沈しようという作戦の一つが遠距離隠密魚雷発射戦で、本作戦の主役が重雷装艦なのである。日本海軍が遠距離隠密魚雷発射戦を考えるようになったきっかけは、昭和10年11月28日、九三式魚雷1型が制式化されたことにある。周知のようにこの魚雷は61センチ酸素魚雷で、490キロの炸薬を頭部にそなえ、36ノットで40,000メートル、48ノットで20,000メートルの射程があり、しかも無軌跡という大きな特長があった。すなわち遠距離隠密魚雷発射戦は、従来の肉薄必中を期する魚雷戦とはかなり様相を異にするもので、主力艦の砲戦距離よりも遠いところから、隠密戦に多数の魚雷を発射するという意表をつく戦術であった。したがって日本海軍は、このような戦術を米海軍に覚えられることを極度に警戒していた。重雷装艦の構想が具体化するのは、昭和12年度の出師準備計画からで、大井、北上、木曽の3隻の軽巡が重雷装艦への改造予定艦とされた(実際に改造されたのは大井と北上の2艦)。日本側はこうした動きを米国側に察知されないように、平時から極秘裡に準備を行ない、出師準備発動後に改造工事に着手するとしていた。改造工事の内容は、前部の14センチ砲だけを残し、その他の兵装を撤去したうえで、九三式魚雷用の61センチ4連装発射管10基を整備するというものであった。遠距離隠密魚雷発射戦を行なうときの重雷装艦の接敵序列は、前衛(高速戦艦戦隊、巡洋艦戦隊、水雷戦隊、重雷装艦戦隊からなる)の最後尾につく。遠距離隠密魚雷発射は前衛の高速戦艦戦隊を除く全艦が行なうのだが、発射した魚雷の敵艦隊への到達時機は、主隊(戦艦戦隊を中心とする部隊)の砲戦開始直後が望ましいとされていた。同航戦の場合、最高指揮官の命令が下ると、前衛の高速戦艦戦隊は増速しつつ、味方遠距離発射部隊の最良射点への進出を掩護する。そして前衛隊の重雷装艦をふくむ巡洋艦部隊は敵主力の斜め前方に進出し、おおむね35,000メートルの距離で第1次発射、引き続いて重雷装艦をのぞく巡洋艦戦隊は第2次発射を行なう。発射魚雷数は約230本という数に達する。以上が遠距離隠密魚雷発射戦のシナリオだが、太平洋戦争では重雷装艦の出番はめぐってこなかった。
大井・北上の重雷装艦への改造
北上と大井の重雷装艦への改造状況を述べる前提として、どのような経緯でこのような艦種が発想されるに至ったかを紹介しておこう。なお、この重雷装艦という呼称は、魚雷発射管を多数装備した状態を指すのであって、正式な艦種呼称は二等巡洋艦(いわゆる軽巡)のままである。日本海軍は、優勢な米渡洋艦隊を西太平洋上に迎え撃ち、潜水艦と飛行機で敵を漸減しつつ艦隊決戦に持っていくというシナリオを描き、そのための艦隊整備に腐心してきた。艦隊決戦の直前に米渡洋艦隊の陣列を混乱させ、かつかなりの艦艇を撃沈するために考え出された戦法の一つに、遠距離隠密魚雷発射戦がある。重雷装艦はその主役を演じるもので、かつ老齢化した五、五〇〇トン型軽巡の活用という点でも意義があった。日本海軍が遠距離隠密魚雷戦を発想したのは、六一センチ酸素魚雷の実用化がそのきっかけとなっている。その第一号である九三式一型は昭和十年十一月に制式化されたが、この魚雷は四九二キロの炸薬を充填し、四〇ノットで三二、〇〇〇メートル、四八ノットで二二、〇〇〇メートルの駛走距離を有する画期的なものである。そのうえ酸素魚雷は無航跡であった。従来の魚雷戦は、駛走距離があまり長くなかったこともあって、肉薄必中方式だったが、酸素魚雷の実用化は、かなりの遠距離から隠密裡の発射を可能としたわけで、同時に多数の魚雷を発射すれば大混乱をきたすことになるわけだ。日本海軍はこの戦法を米側にさとられることなく、完成に努めたのである。重雷装艦の構想が具体化したのは、昭和十二年度の水師準備計画からである。重雷装艦への改造の白羽の矢が立ったのは北上、大井、木曽の三隻、いずれも球磨型軽巡である。改めて説明するまでもなく、水師準備というのは、一旦緩急ある場合に備えてのもので、重雷装艦の場合、平時から隠密裡に準備をし、出師準備発動後、急速な改造工事を行なう手筈となっていた。前記三艦の重雷装艦への最終的な改造要領は次のとおりである。後部の一四センチ単装砲三基を撤去し、同砲は前部の四基のみとする。対空兵装は二五ミリ連装機銃二基、魚雷兵装は在来のものを全廃して六一センチ四連装魚雷発射管一〇基とする。魚雷攻撃力は片舷二〇射線、両舷で四〇射線というものすごいもので、世界的にも例のない重雷装艦であった。装備する魚雷発射管の制式名は九二式四連装三型と称し、使用魚雷は九三式一型改二である。次発装填装置はなく、したがって魚雷搭載数は四〇本、まさに魚雷による槍衾(やりぶすま)の構成である。昭和十五年十一月、出師準備計画第一着作業が発令され、北上と大井は重雷装艦へ改装されることになったが、木曽はなぜか外されており、ついに同艦の重雷装艦化は実現しなかった。北上の重雷装艦化は佐世保海軍工廠、大井のそれは舞鶴海軍工廠が担当することになり、前者は昭和十六年一月から十二月にかけて、後者は同一月から九月にかけて施工された。兵装の装備状況は前に記したとおりだが、じつはその前段階に一四センチ砲をすべて撤去し、兵装は一二・七センチ連装高角砲四基、二五ミリ連装機銃四基、六一センチ四連装魚雷発射管一一基とする計画のあったことを書き添えておこう。当然のことながら、実現しなかった兵装の方がより近代戦にマッチしていたが、膨大な工事量を消化しなければならなかった当時としては、少しでも工数を減らしたかっただろうし、また一二・七センチ高角砲の生産不足なども関係して日の目を見なかったものと思われる。さて話をもとに戻そう。改造工事にあたっては、艦橋構造物の拡大、艦首楼の延長、中央船楼の廃止、後部甲板室の改正などもあわせて実施し、上甲板両舷には各一・六メートルの張り出しを設けて、また装載艇の格納場所は中央配置の廃止にともなって後部甲板室上に改められた。重雷装艦の戦術シナリオは、前衛(高速戦艦戦隊、巡洋艦戦隊、水雷戦隊、重雷装艦戦隊からなる部隊)の最後尾につき、主隊(戦艦戦隊を中心とする主力部隊、)の砲戦開始直後に魚雷が敵艦隊に到達するように発射するというもの。同航戦の場合は、高速戦艦部隊の掩護をうけつつ、前衛の重雷装艦を含む巡洋艦戦隊は敵主力の斜め前方に進出し、約三五、〇〇〇メートルの距離で第一次発射、引き続いて重雷装艦を除く巡洋艦戦隊が第二次発射を行なう手順となっていた。北上と大井の両艦は、昭和十六年十一月二十日付けで第9戦隊を編成して第1艦隊に編入されたが、周知のように多年描いていた米渡洋艦隊の迎撃戦の機会はついに訪れなかった。ちなみに重雷装艦の公試状態排水量は六、九〇〇トン、速力は三一ノットであった。
北上の回天母艦への改造
別稿のように、北上は昭和十六年に重雷装艦に改造され、来るべき米海上決戦では緒戦期に重大な役割を演ずることになっていた。しかし、遂にその機会は来ず、戦局は次第に日本側に不利になっていき、輸送艦としての任務がクローズアップされてきた。本艦はそうした経緯をへて、戦傷を機に回天母艦に変身することになったのである。昭和十七年八月、ガダルカナル島をめぐる戦闘の開始とともに本艦は大井と輸送任務に従事することとなり、両舷の魚雷発射管を一基ずつ撤去し、一四メートル特型運貨船(いわゆる大発)数隻を搭載するように改造された。この年の十一月十九日に至って大井とともに編成していた第9戦隊は解隊となり、いっそう輸送任務に専念することになった。このころ輸送能力を強化するために、魚雷発射管はさらに片舷二基ずつ減らされて一四メートル特型運貨船を増載しているが、その詳細は不明である。昭和十八年五月に至って本艦と大井は、本格的な高速輸送艦に改造されることになり、具体的な計画が立案された。その内容は結果的に次の回天母艦改造の布石となるので、煩瑣をいとわず箇条書きにして紹介することにしよう。
(1)四基あった主機の半数と一二基あった主缶のうち四基を撤去する。空間となった前部機械室と第1缶室は輸送物件の格納所と清水タンクに改める。第1缶室の廃止により1番煙突を撤去し、速力は約二九ノットに減ずる。
(2)従来の艦橋構造物を撤去し、位置を少しずらせて新型の艦橋構造物を設ける。
(3)一四センチ単装砲を全廃し、一二・七センチ連装高角砲二基と二五ミリ三連装機銃一〇基を装備する。六一センチ四連装魚雷発射管は二基を残して他はすべて撤去する。
(4)輸送物件の搭載能力を約三〇〇トンとし、一四メートル特型運貨船四隻と一〇メートル特型運貨船(いわゆる小発)二隻を搭載する。輸送物件荷役用に水上機母艦時代の千歳型装備のクレーンを取り付ける。
これらを実現するとなると、かなり大規模な改造となり、わが方にとって一段と不利になってきている戦局を考慮した場合、無理との結論に達し、計画はついに見送られてしまった。その後、本艦は昭和十九年一月二十七日、英潜水艦テンプラーの雷撃をうけて損傷し、シンガポールで応急修理を行なったのち佐世保へ帰投した。本格的な損傷復旧工事は佐世保工廠で同年八月から開始されたが、これを機に回天母艦に改造されることになった。改造要領は先に見送られた高速輸送艦改造計画をベースとし、それに回天搭載関係の改正をくわえたものである。回天の搭載は、本来、基地への輸送を目的としているが、洋上会敵の場合にはそれを航走しながら発進させ、攻撃にあたることも可能とされた。なお改造設計は艦政本部第四部の松本喜太郎技術中佐(当時)が担当した。改造にあたって、すべての砲熕兵装と魚雷兵装を撤去するとともに、被雷損傷した後部機械室のタービン二基を陸揚げし、四軸から二軸に減軸した。減軸にともなって速力は三一ノットから二三ノットに低下している。残された推進軸は外舷軸である。なおタービンの撤去によって空所となった後部機械室は、倉庫に生まれ変わった。船首楼後方には、オリジナルな船体幅一杯の甲板室が3番煙突の直前まで設けられ、そのさらに後方の上甲板両舷は艦尾まで回天の搭載および発進スペースとされた。艦尾は回天搭載数は片舷四基で、全艇発進の所要時間は八分ほどだったという。回天発進の管制は、後部甲板室後端の回天発進指揮所で行なうようになっていた。砲熕兵装は新たに一二・七センチ連装高角砲二基を搭載し、前甲板と後部甲板室上に一基ずつ振り分けた。近接対空火器も二五ミリ三連装機銃一二基、同単装機銃三一基が随所に装備された。艦橋構造物にも改正がくわえられて、同構造物を前方に拡大するとともに、艦橋天蓋部に防空指揮所を新設した。また艦橋構造物トップの六メートル測距儀は四・五メートル九四式高角測距儀に換装し、その前方に四式射撃盤を備えた。マスト関係にもいろいろと改正の手がくわえられた。前檣上部には二二号対水上電探、そのさらに上には一三号対空電探を取り付けるとともに、三脚下部には電探室と思われる箱型構造物を設けた。それから前檣中段のフラットには九二式発射指揮盤を装備した。後檣はまったく更新され、棒檣から三脚檣となり、基部には千歳から陸揚げした再用品のクレーンを取り付け、上部には一三号対空電探を備えた。ちなみに後部機械室から変身した倉庫はこのクレーンのアーム下方にあり、甲板上には大型のカーゴ・ハッチが設けられていた。対潜兵装は重雷装艦となった後に若干備えたが回天母艦への改造に際してはそれぞれがさらに強化された。備えられたのは爆雷投射機二基、同投下軌条二条で、爆雷一八個を搭載した。本艦の改造工事完成は二十年一月だったが、すでに日本海軍の燃料事情にそうとう逼迫しており、回天の発進、揚収訓練もままならなかったという。七月二十四日の呉空襲で至近弾約一〇発により機械室を損傷し、行動不能の状態で終戦を迎えた。
防空巡洋艦となった五十鈴
旧式軽巡を防空巡洋艦に改造して有効に活用するという考えは、英海軍が先鞭をつけたものである。すなわちC級のコヴェントリーとカーリューの改造がそれで、時期は昭和十年のことであった。改造の容量は、従来、装備していた一五・二センチ単装砲五基、七・六センチ単装高角砲2基および五三・三センチ連装魚雷発射管四基をすべて撤去し、一〇・二センチ単装高角砲一〇基と高射装置二基を装備するというもの。コヴェントリーとカーリューの改造後の評価は高く、英海軍は旧式軽巡の防空巡洋艦化をさらに推進した。こうした動きは当然、日本海軍も注目しており、昭和十二年には最旧式軽巡天龍型二隻の防空巡洋艦化が要求されたという。しかし計画は具体化しなかった。また五、五〇〇トン型軽巡数隻の防空巡洋艦改造の計画も検討されたが、これまた実現しなかった。だが苛烈な戦闘が、五、五〇〇トン型の一艦五十鈴(長良型)の防空巡洋艦改造を実現させたのである。太平洋戦争が日本にとって次第に不利に展開しつつあった昭和十八年十二月、本艦はクェゼリン方面での対空戦闘で大損害を被り、トラックで応急修理ののち横須賀へ帰投した。昭和十九年一月二十三日に横須賀へ入港した本艦は、損傷復旧を機に戦時大修理を行ない、あわせて防空巡洋艦への改造も実施することになった。工事は同月末から九月に至る長期にわたるもので、前半は横須賀工廠、後半は三菱横浜造船所が担当した。防空巡洋艦への改造は当然のことながら後半期の工事となった。昭和十九年五月一日、本艦は横須賀から横浜へ回航された。防空巡洋艦への改造にあたって、従来、装備していた一四センチ単装砲七基全部、六一センチ連装魚雷発射管四基すべてが撤去され、メインの砲塔兵装は一二・七センチ連装高角砲三基となり、魚雷兵装は六一センチ四連装二基となった。一二・七センチ連装高角砲は、太平洋戦争当時の日本海軍の標準艦載高角砲で、八九式と称した。砲身長四〇口径、初速七二〇メートル/秒の半自動砲である。俯仰範囲はマイナス一〇度からプラス九〇度、最大射程一四、六〇〇メートル、最大射高九、四四〇メートル、発射速度は一門あたり毎分一四発となっていた。一二・七センチ連装高角砲の配置は、1番砲が前甲板、2番砲が3番煙突後方、3番砲が後檣直後の甲板室上となっており、これらを管制する九四式高射装置が新しくなった。三脚前檣の上に装備された。この高角砲と米海軍標準の一二・七センチ三八口径両用砲を比較した場合、砲そのものは遜色ないと思うが指揮装置や使用砲弾となると明らかに彼の方に分があった。特に砲弾は、彼のVT信管に対してこちらは時限信管と、命中精度が比較にならなかったほどである。近接防空火器は、改造前からの装備分を含めて二五ミリ三連装機銃一一基、同単装機銃五基が装備されたほか、二五ミリ単装機銃据え付け架台一二個も取り付けられ、同機銃は最大一七基搭載できるようになった。これらの三連装、単装機銃とも九六式と称するタイプである。また工事期間中に対空用の二一号電探一基、同一三号電探一基、対水上用の二二号電探一基も搭載した。二一号電探は艦橋構造物のトップ、一三号電探と二二号電探は後檣に取り付けられた。説明が遅れたが、六一センチ四連装魚雷発射管は、旧後部魚雷発射管装備位置に一基ずつ装備された。新魚雷発射管の型式は九二式である。本艦は改造工事中のまま、昭和19年8月20日付けで新設の第31戦隊の旗艦となった。この戦隊は日本海軍初のハンター・キラー・グループ(対潜掃討部隊)で、駆逐艦、海防艦のほか、三座水偵で編成された航空隊(9月1日付けで編入)をも隷下部隊としていた。当初、旗艦には姉妹艦の名取が予定されていたが、同艦が部隊編成の前日に戦没したことと、五十鈴の方が装備も適していることが判明したため急きょ計画を変更して、本艦が旗艦となったのである。なお、本艦の改造工事は9月14日に完成し、ふたたび第一線に復帰して第31戦隊の旗艦任務についた。本艦が防空巡洋艦に改造されたことの意義は、この後の活躍で明らかなものの、それでもなおかつ装備的に英海軍の旧式軽巡改造の防空巡洋艦に劣っていたことは否めない。もっときつい言い方をすれば、本艦程度の改造では、とても「防空巡洋艦」とは呼べないような気がする。それよりこれは本艦というよりも太平洋戦争に参加した日本軍艦すべてについていえることだが、対空防御火網が段階的縦深防御方式をとっていないことである。一二・七センチ高角砲の次がいきなり二五ミリ機銃となるのは問題で、一二・七センチ両用砲、四〇ミリ機銃、二〇ミリ機銃とした米、英両海軍に一日の長があったことは確かである。最後に本艦の対空兵装が威力を発揮した戦闘の一例を、紹介してみよう。昭和20年4月4日、本艦はチモール島に駐屯する陸軍部隊をスンバワ島へ撤収させるため、水雷艇と掃海艇を警戒部隊として輸送の任務についた。6日にチモール島のクーパンで陸兵を乗せ同地を出港したが、同日午後、米陸軍の爆撃機9機が来襲し、輸送部隊を攻撃した。これに対して本艦は巧みな回避運動を行なったばかりでなく、敵機を3機も撃墜するという凱歌をあげている。
1946年(昭和21年)
1月
25日(金)
駆潜特務艇248号、壱岐水道において触雷し沈没。
2月
12日(火)
呂501、502潜水艦、英海軍によりシンガポールにて処分される。
24日(日)
駆潜特務艇201号、済州島南端において座礁沈没。
3月
25日(月)
駆潜特務艇180号、大阪港岸壁において火災により沈没。
4月
1日(月)
伊36、47、53、58、156、157、158、159、162、366、367、402、呂50、波103、105、106、107、108、109、111、201、202、203、208潜水艦、長崎県五島沖にて米軍により処分される。
2日(火)
空母龍鳳、呉にて解体はじまる。
5日(金)
伊202、波207潜水艦、佐世保向後岬沖にて米軍により処分される。
16日(火)
伊503、504潜水艦、紀伊水道にて米軍に処分される。
18日(木)
哨戒特務艇25、137号、下関付近において荒天により擱座。駆潜特務艇81号、石川県松下付近にて座礁。
30日(火)
伊121、呂68、500潜水艦、若狭湾にて米軍により処分される。
5月
2日(木)
戦艦榛名、呉にて解体はじまる。
6月
1日(土)
空母隼鷹、佐世保にて解体はじまる。
7月
1日(月)
戦艦長門、軽巡酒匂、ビキニ環礁における原爆実験に供され、酒匂は沈没。
2日(火)
戦艦日向、呉にて解体はじまる。
8日(月)
重巡妙高、マラッカ海峡にて英軍により処分される。
11日(木)
掃海艇4、8号、駆潜艇1、3、5、41号、シンガポール島ケッペル港南方にて英軍により処分される。
19日(金)
海防艦40号、周防灘にて触雷し損傷。
30日(火)
戦艦長門、25日のビキニ第2回原爆実験により沈没。海防艦59号、呉にて荒天により日向と接触沈没。
8月
31日(土)
空母鳳翔、日立にて解体はじまる。
9月
1日(日)
駆潜特務艇174号、大竹にて火災沈没。空母海鷹、日鮮サルベージにて解体はじまる。
20日(金)
輸送艦20号、膨湖島において座礁。潜水母艦長鯨、日立向島にて解体はじまる。
10月
1日(火)
軽巡北上、長崎にて解体はじまる。
9日(水)
戦艦伊勢、呉にて解体はじまる。
29日(火)
重巡高雄、マラッカ海峡にて英軍により処分される。
11月
26日(火)
軽巡鹿島、舞鶴川南にて解体はじまる。
29日(金)
重巡青葉、呉にて解体はじまる。
12月
5日(木)
空母天城、呉にて解体はじまる。
22日(日)
空母葛城、日立にて解体はじまる。
31日(火)
海防艦志賀、生名、竹生、鵜来、新南、運輸省に移管される。
1947年(昭和22年)
4月
1日(火)
練習特務艦敷島、佐世保にて解体はじまる。
7日(月)
重巡利根、呉にて解体はじまる。
5月
3日(土)
除籍未済の艦艇全部の除籍完了。
終
1月
25日(金)
駆潜特務艇248号、壱岐水道において触雷し沈没。
2月
12日(火)
呂501、502潜水艦、英海軍によりシンガポールにて処分される。
24日(日)
駆潜特務艇201号、済州島南端において座礁沈没。
3月
25日(月)
駆潜特務艇180号、大阪港岸壁において火災により沈没。
4月
1日(月)
伊36、47、53、58、156、157、158、159、162、366、367、402、呂50、波103、105、106、107、108、109、111、201、202、203、208潜水艦、長崎県五島沖にて米軍により処分される。
2日(火)
空母龍鳳、呉にて解体はじまる。
5日(金)
伊202、波207潜水艦、佐世保向後岬沖にて米軍により処分される。
16日(火)
伊503、504潜水艦、紀伊水道にて米軍に処分される。
18日(木)
哨戒特務艇25、137号、下関付近において荒天により擱座。駆潜特務艇81号、石川県松下付近にて座礁。
30日(火)
伊121、呂68、500潜水艦、若狭湾にて米軍により処分される。
5月
2日(木)
戦艦榛名、呉にて解体はじまる。
6月
1日(土)
空母隼鷹、佐世保にて解体はじまる。
7月
1日(月)
戦艦長門、軽巡酒匂、ビキニ環礁における原爆実験に供され、酒匂は沈没。
2日(火)
戦艦日向、呉にて解体はじまる。
8日(月)
重巡妙高、マラッカ海峡にて英軍により処分される。
11日(木)
掃海艇4、8号、駆潜艇1、3、5、41号、シンガポール島ケッペル港南方にて英軍により処分される。
19日(金)
海防艦40号、周防灘にて触雷し損傷。
30日(火)
戦艦長門、25日のビキニ第2回原爆実験により沈没。海防艦59号、呉にて荒天により日向と接触沈没。
8月
31日(土)
空母鳳翔、日立にて解体はじまる。
9月
1日(日)
駆潜特務艇174号、大竹にて火災沈没。空母海鷹、日鮮サルベージにて解体はじまる。
20日(金)
輸送艦20号、膨湖島において座礁。潜水母艦長鯨、日立向島にて解体はじまる。
10月
1日(火)
軽巡北上、長崎にて解体はじまる。
9日(水)
戦艦伊勢、呉にて解体はじまる。
29日(火)
重巡高雄、マラッカ海峡にて英軍により処分される。
11月
26日(火)
軽巡鹿島、舞鶴川南にて解体はじまる。
29日(金)
重巡青葉、呉にて解体はじまる。
12月
5日(木)
空母天城、呉にて解体はじまる。
22日(日)
空母葛城、日立にて解体はじまる。
31日(火)
海防艦志賀、生名、竹生、鵜来、新南、運輸省に移管される。
1947年(昭和22年)
4月
1日(火)
練習特務艦敷島、佐世保にて解体はじまる。
7日(月)
重巡利根、呉にて解体はじまる。
5月
3日(土)
除籍未済の艦艇全部の除籍完了。
終
加賀の大改装工事
加賀は昭和四年十一月、艦隊に配備されて本格的な航空母艦としての運用を実施してきたが、その結果、空母としての機能上、問題となる数々の欠点があらわれてきた。加賀は本来、戦艦として建造されたものであったため、赤城に比較して船体は短く、このため上部飛行甲板の長さも約二〇メートル短く、また速力も二六ノットで空母としては低速であった。また三段式飛行甲板(実際には二段しか使用できなかった)も、艦載機の新型化にともない運用上の問題も生じてきていた。さらに艦中央部より飛行甲板下に沿わせて、艦尾に導設された煙路の導設方法も問題であり、艦尾から排出される排煙により艦尾付近の気流が乱され、艦載機の運用にも支障を生じるとともに、煙路側の居住区は高温のため、夏季は居住不可能の状態となる悪循環にさらされていた。これらの空母としての機能上の諸問題を改善するため艦隊配備後、間もなく改装計画が立てられたが、予算の関係からその実施は延び延びとなっていた。昭和八年に至って加賀改装の予算が認められ、海軍技術会議により改装計画が検討され、昭和八年十月より佐世保工廠で大改装工事が実施されることとなった。加賀の大改装工事の主な内容は、次のとおりである。
(1)搭載機数の増加。
(2)飛行甲板を単一甲板とし、これを出来るだけ延長する。
(3)速力の増大。
(4)煙突の湾曲煙突への改装。
(5)飛行甲板上の塔型艦橋の設置。
(6)対空兵装の強化。
(7)航続距離の増大。
加賀の改装にあたっては、各種の案が検討されたが、昭和九年二月に航空廠で実施された風洞実験モデルによると、飛行甲板は最上部一段とされ、艦首先端部まで延長するとともに、上部、中部格納庫も艦首先端部まで延長されており、さらに飛行甲板右舷前部には大型の塔型艦橋と直立した煙突を持つ艦容となっていた。さらに煙突については後の空母隼鷹、飛鷹、大鳳、信濃に搭載された右に傾いた傾斜煙突の検討も行なわれたが、この直後に発生した友鶴事件に鑑み、重心降下をはかり復原力を保持するため、次に述べるような改装内容となった。飛行甲板延長については三段式飛行甲板の中部、下部飛行甲板を廃止し、上部飛行甲板一層とし、これをできるだけ延長するものとされたが、船体尾部を延長し、艦尾方向への飛行甲板延長をはかるとともに、艦首方向へも従来の上部飛行甲板前端部から艦首ぎりぎりまで延長し、これにより長さ二四八・六メートル、幅三〇・五メートルと改装前に比べると、約七七メートルの延長がはかられた。飛行甲板の延長とともに搭載機数の増大をはかるため、格納庫も拡張されたが、従来の上部、中部格納庫が前方に延長された。当初計画では前述のとおり格納庫を艦首一杯まで延長することとなっていたが、友鶴事件に鑑み、風圧面積を減ずるため、艦首から約二三メートルのところまで延長することに変更されたものである。また上部格納庫の側壁は、解放式とされていたのを側壁を持った密閉式に改装された。この格納庫の拡張にともない搭載機数も常用七二機、補用機一八機の合計九〇機と大幅に増加したが、内訳は九〇式艦戦一二+三、八九式艦攻三六+九、九四式艦爆二四+六機である。艦載機昇降用エレベーターは従来、前後部各一基が装備されていたが、前部エレベーターの前方の飛行甲板、格納庫の延長部に一基が増設されて合計三基となり、後部エレベーターに取り付けられていた天蓋は、重量軽減のため撤去された。さらに着艦制動装置についても、従来の萱場式から呉式四型に改められ、横索一〇本を装備した。また同時に着艦に失敗した艦載機を制止するため、前部および中部エレベーター直後に空技廠式滑走制止装置を一基ずつ装備したほか、移動式滑走制止装置二基、応急用滑走制止装置一基を装備した。また着艦指導灯も装備され、艦載機着艦の安全がはかられた。さらに飛行甲板前端部に発艦促進装置二基を装備する計画で、後日装備のため事前工事のみが実施されたが、けっきょく有効なカタパルトの開発ができず未装備に終わってしまった。速力増大に関しては、従来の再高速力二七ノットを三〇ノットとすべく計画され、船体形状を改善し、水中抵抗減少をはかるため艦尾を約八メートル延長したほか、機関の軸馬力を九一、〇〇〇馬力から一二七、四〇〇馬力へアップするための主機、主缶の換装と改装が実施された。従来のロ号艦本式重油専焼缶一二基は撤去され、小型大力量のロ号艦本式空気予熱器付き重油専焼缶を搭載し、缶室も前方に延長し、主缶八基を一缶一室配置に改めた。主機械は、四組のタービンのうち内側軸の二組を、最上型軽巡に搭載されたタービンと同型のものに換装するとともに、推進器もより推進効率の高い形状のものに交換された。この主缶、主機換装により加賀の出力は一二七、四〇〇馬力に増大し、速力は前述の船型改正と相まって計画出力三〇ノットには達しなかったものの、公試運転では二八・三四ノットを記録した。航続力増大については、新造時の重油等最良六、〇〇〇トンと、一四ノットで八、〇〇〇カイリであったものを、重油満載量を七、五〇〇トンに増加させ、一六ノットで一〇、〇〇〇カイリに延長した。重油搭載量増加のため、主缶、機械室間の舷側二重底内の水雷防御区画内に新たに重油庫を設けた。煙突は従来の両舷にわけて艦尾へ煙路を導設した型式の煙突を撤去し、換装した八基の主缶からの八本の煙道を右舷側にまとめ、右舷舷側から下方に湾曲した巨大な煙突より排出するように改装された。前述のとおり当初計画では右舷飛行甲板前部に直立した大型煙突を設置するものとしていたが、風圧面積を減少させるためと重心降下のため、湾曲煙突に改められたものである。湾曲煙突には熱煙冷却装置が設けられており、艦載機の離着艦の場合は排煙による艦載機への影響を防止するため、海水を煙突出口に噴射し、排煙温度を低下させる仕組みになっていた。改装前の艦橋は中部飛行甲板前端部に設けられていたが、操艦および艦載機の発着艦指揮にきわめて不便であったため、大改装前に上部飛行甲板右舷前部に試験的に仮設の小型艦橋が設けられていたが、大改装工事にあたっては大型の塔型艦橋を、飛行甲板上右舷に設ける計画となっていた。しかし友鶴事件にともなう改正から大型艦橋の搭載は中止され、羅針艦橋、操舵室、発着艦指揮所を設けた四層の小型艦橋に変更され、右舷前部に搭載された。兵装関係では、主兵装の中部飛行甲板前部両舷に装備されていた二〇センチ連装砲塔は、飛行甲板の一層化にともない撤去されたが、後部中甲板両舷に砲廓式に二〇センチ単装砲二門が追加装備され、片舷砲力は改装前と同じ五門とされた。しかし五門とも舷側砲廓式装備であるため、改装前に比較し、艦首方向への射界は著しく制限されるようになった。対空兵装は著しく増強されたが、一二センチ連装高角砲六基をすべて撤去し、これを新式の四〇口径八九式一二・七センチ連装高角砲八基に換装し、右舷は前部二基、後部二基、左舷は前部一基、中央部三基を配置したが、装備位置を従来より一段高め、反対舷に対しても二〇度以上の仰角で射撃可能とした。右舷の煙突後部に装備された。二基に対しては、煙突からの煤煙防止のため高角砲全周を覆う楯が装備されている。また射撃指揮装置として九一式高射装置が両舷各一基装備とされた。対空機銃についても増強がはかられた。一三ミリ連装機銃は撤去され、新たに二五ミリ連装機銃一一基が装備されたが、機銃は飛行甲板舷側の機銃台上に、右舷後部五基、左舷前部二基、後部四基が装備された。なお加賀の大改装時の対空機銃装備数は、二五ミリ連装機銃一一基とする資料と一四基とする資料があるが、昭和十二年五月に撮影した写真では、先に述べた装備位置のほか、右舷艦橋下に二基、左舷前部に一基が装備され一四基となっており、大改装後、追加装備されて一四基となったのか、大改装時に一四基装備となったのか明らかでない。このほか揚弾機構は、艦載機の搭載する爆弾、魚雷は爆弾庫、魚雷庫から揚弾筒により防御甲板上に揚げられ、さらに別個の揚弾筒に移し替えられ、格納庫、飛行甲板に揚弾する中継式のものであったが、これを揚弾庫から格納庫および飛行甲板に直接揚弾できる機構に改めた。なお揚爆弾筒は爆弾のみならず、魚雷にも兼用できるものとした。また艦載機搭載数増加にともない。爆弾庫および魚雷庫の拡張が行なわれ、爆弾、魚雷の搭載数増加がはかられた。この改装により加賀の基準排水量は改装前より約八、七〇〇トン増大して三八、二〇〇トンとなり、満載排水量は四二、五〇〇トンと大幅に増大したが、改装工事により重心点の上昇をきたし、GM値が減少したので船体中央部水線部に、従来のバルジの上にバルジを新設した。加賀の大改装工事は昭和十年十一月に完了し、強力な大型攻撃空母に生まれ変わった加賀は、十年十一月十五日付けで第2艦隊第2航空戦隊に編入され艦隊に復帰した。
赤城の大改装工事
加賀の大改装工事に引き続き、赤城の大改装工事が実施されたが、赤城は昭和十年十一月十五日付けで第3予備艦に編入され、佐世保工廠で第二次改装工事(第一次は巡洋戦艦から空母への改装工事)に着手した。本艦の近代化を目的とする大改装工事の内容は加賀に準じたものであったが、大改装工事にあたり軍令部の要求してきた内容は、次のようなものであった。
(1)飛行甲板を最上層のもの一段とし、これを延長して長大なものとする。
(2)格納庫を増設して搭載機数の増加をはかる。
(3)対空兵装を強化する。
(4)艦橋を塔型艦橋とする。
(5)艦載機昇降用エレベーターの増設と改善。
(6)爆弾、魚雷および航空機用燃料搭載量の増加と関連諸装置の改善、整備。
(7)ボイラーはすべて重油専焼缶とし、後方煙突が上向きになっているのを下向きとする。
この軍令部要求案に対して、海軍省側としては改装予算も充分でないので、改装は最小範囲に止めなければならないという事情もあり、改装要領については海軍省と軍令部で折衝の結果、(1)対空兵装強化については、高角砲の換装は見送る。(2)撤去する二〇センチ連装砲二基のかわりに、舷側部への砲廓式二〇センチ単装砲の増設は実施しない。(3)機関部の大幅な改正は行なわない。などの軍令部要求に対する変更事項の確認を行ない、その他については軍令部要求案どおり実施することで改装内容が決定した。飛行甲板延長については、中部および下部飛行甲板を撤去し、最上層の上部飛行甲板を艦の前端まで延長することとされたが、後部昇降機の前方に縦張り鋼索制動装置を装備していたとき、鋼索の後端部を止めるため飛行甲板に段が付いていたので、これを無くするため、段の付いている部分から前方を上げて飛行甲板を平坦化するように要求されたが、これをやると極めて大工事になるため、段付き部に板を張って傾斜をゆるやかにする工事がなされた。飛行甲板の前部への三二メートル延長にともない、赤城の飛行甲板は二四九メートル、中央部幅三〇・四八メートルとなり、艦載機の運用能力は大幅に向上した。格納庫の増設については、上部格納庫前の羅針艦橋ほか関係諸室および二〇センチ連装砲を撤去するともに中部、下部飛行甲板を撤去し、上部および中部格納庫を艦首錨甲板まで延長した。また上部格納庫は新造時は側壁のない解放式であったが、鋼板により閉塞されて密閉式構造とされた。なお密閉化にあたっては、格納庫幅を広くとるため現在の支柱を撤去し、新しい支柱を建てるよう要求があったが、支柱の取り替えは大工事となるため支柱の外側に側壁を張り、できるだけ内幅を広くするよう配慮された。格納庫の増設、改装にあわせて飛行機昇降機の増設と改正も行なわれたが、昇降機の増設は加賀の前部への増設と異なり、赤城では中央部に一基増設された。また前部昇降機は艦中心線より右舷側に配置されており、幅一一・八メートル、長さ一三・〇メートルの前後方向に長手の短形型であったが、この型式では格納庫に艦載機を出し入れするとき、艦載機の向きをその都度、変えなくてはならず、運用上、不具合があった。このため前部昇降機を横に長くし、幅一六メートル、長さ一四・五メートルの長方形のものに改正したが、このため最上甲板の昇降機の孔の大規模な補強工事が必要となり、甲板面のみならず、外板にも相当な補強工事が実施された。後部昇降機天蓋は、加賀では重量軽減のため撤去されたが、赤城でも撤去が検討されたものの、天蓋の脚が艦載機昇降作業に不便があるが、天蓋があるため艦載機着艦時でも上部、中部格納庫の昇降機面に床ができるため、庫内の艦載機整理に便利がよいという意見もあり、艦の復原性能上もあまり問題がないため、結局、現状どおり装備と決定した。なお増設された中部昇降機寸法は長さ一一・八メートル、幅一三メートルで、四角形に近い形状をもっていた。着艦制動装置もほぼ加賀と同形式とされたが、呉式四型着艦制動装置が装備され、後部昇降機から中部昇降機の間に横索四本を装備した。また滑走制止装置は固定式二基が中部、前部昇降機の後方に各一基装備されたほか、移動式滑走制止装置二基、応急用滑走制止装置一基も装備された。また発艦促進装置も加賀と同じく飛行甲板前部に装備する計画で、事前工事が実施されたが、結局、装備に至らなかった。遮風装置は前部昇降機の前後部に各一基が装備された。格納庫の増設にともない艦載機の搭載数は改装前に比較し、約五〇パーセント増加し、合計九一機の搭載が可能となったが、その内訳は九六式艦上戦闘機常用一二機(補用四機)、九六式艦上攻撃機常用二五機(補用一六機)、九六式艦上爆撃機常用一九機(補用五機)であった。爆弾、魚雷および航空機用燃料搭載量は、搭載機全機が三回の攻撃に飛び立ち、なお偵察および煙幕展張を行なうに必要な量を搭載するものとし、防御甲板下に爆弾庫、魚雷庫、軽質油庫が増設され、前後部に揚爆弾筒が装備されたが、前部揚爆弾筒は飛行甲板まで揚弾可能であり、後部揚爆弾筒は上部格納庫まで揚弾可能であった。また軸質油ポンプは大容量のものが装備され、特に飛行甲板前部で強力に給油できるように設計されたが、飛行甲板各所および上部、中部格納庫の各所でも給油可能なようになっていた事はもちろんである。艦橋構造物は加賀と同じく飛行甲板上に設置されたが、設置位置については航空関係者より、加賀のように発艦区域内の前部に置くと発艦作業に支障があり、また甲板後部から中央部にかけての着艦区域内は、無障害の区域が長大なほうが望ましいとする意見が出され、塔型艦橋は艦中央部に置く必要があり、右舷側には煙突があるため必然的に左舷配置とせざるを得なかった。このため実艦において実大模型により実験を行なうこととなり、改装前の赤城飛行甲板上で、改装後の塔型艦橋設置位置に実大模型艦橋を設置し、横須賀および横須賀から改装のため佐世保へ回航する途中に、艦載機の発着艦実験および気流測定を行ない、ようやく左舷中央部設置を決定した。しかし赤城改装完了後の実際の運用結果では、離着艦に中央艦橋はかえって不便な面があり、中央艦橋方式を採用したのは本艦と飛龍のみで、後に建造された翔鶴、瑞鶴でも当初計画では中央艦橋方式としていたが、建造途中から右舷前方に変更している。主機械については、予算の関係もあり、また本艦の最高速力は三一・七五ノットと、空母として充分な速力を有していたため、加賀のような大幅な改正は実施されず、新造時搭載のロ号艦本式重油専焼缶一一基、同小型混焼缶八基および技本式高低圧タービン四組のうち、小型混焼缶八基を重油専焼缶に改造する工事のみが実施されたが、これにより機関出力は新造時の一三二、〇〇〇馬力から一三三、〇〇〇馬力に若干出力が増大した。しかし大改装工事による排水量増大のため、最高速力は三一・二ノットと改装前より若干低下する結果となった。航続力増大については、改装前の燃料搭載量の重油三、九〇〇トン、石炭二、一〇〇トンを、全缶重油専焼缶となったのに伴ない、燃料タンクを改装して重油搭載量を五、七七〇トンに増大させ、一四ノットで八、〇〇〇カイリであった航続距離を、一六ノットで八、二〇〇カイリに延伸した。また煙突については、改装前の第1〜4缶室に装備された大型缶一一基の煙道を集めた下向き前部大型煙突と、第5、第6缶室に装備された小型缶八基の煙道を集めた上向き後部煙突の二本となっていたのを、一本の大型下向き煙突にまとめた。これにより赤城の煙突は右舷中央部に下向きに湾曲した巨大な一本煙突となったが、上向き煙突の廃止により、艦載機の離着艦時の排煙による影響はきわめて少なくなった。兵装については、主兵装の前部、中部飛行甲板に装備されていた二〇センチ連装砲塔は撤去されたが、加賀のように後部中甲板の砲廓式単装砲の増強はされず、片舷三門のままとされた。赤城は新造時より増設用の四門分のガンサポートを装備していたが、これはそのまま残された。対空兵装は予算上の制約から、新造時に装備した片舷三基一〇年式一二センチ連装砲の換装は実施されず、そのまま装備されることとなったが、射撃指揮装置に九一式高射装置が装備され、射撃精度の向上がはかられた。そのかわり近接防御用の対空機銃は加賀より強化され、これまで装備されていた一三ミリ連装機銃は撤去され、九六式二五ミリ連装機銃一四基が射撃指揮装置とともに装備された。装備位置は前部昇降機ふきん両舷舷側の機銃座に各三基、後部昇降機ふきん両舷装備の機銃座に各四基で、各部に一基ずつの九五式機銃射撃装置が装備された。赤城の高角砲換装は開戦までに遂に実施されず、一二センチ連装高角砲装備のままで太平洋戦争に突入したが、一〇年式一二センチ連装高角砲と八九式一二・七センチ連装高角砲では、性能に大きな差があり、本艦の対空防御能力は加賀より劣る結果となった。赤城の大改装工事は昭和十三年八月三十一日に完了し、十三年十二月十五日付けで第1艦隊第1航空戦隊に編入され、ただちに中国水域での戦闘任務についた。
着艦装置の発達
第一次大戦末期に英国で本格的空母が出現したときに、大きな技術的課題となったものの一つが、着艦制動装置であろう。これは一九一一年一月に、米国のエリイが世界で最初に装甲巡ペンシルバニアの後甲板に着艦したときは、両側に砂袋を結び付けた制動装置を用いた。理論的にはこの横索式が自然であるのはわかり切ってはいたが、当時この制動力としてのブレーキ機構に適当なアイデアがなく、英国が最初に採用したのは縦索式のものであった。これは日本でも最初の鳳翔以下赤城、加賀の各艦に採用された。これには制式名称はなく、鳳翔の場合、艦尾より前方へ約一〇〇メートルの長さに渡り、直径一二ミリの鋼索を一五センチ間隔で幅二〇メートルに渡って縦に張り渡し、これを九ヵ所の駒板で甲板上一五センチの高さに持ち上げたもので、着艦機は車輪の間に五個のフックを持ち、これでこの鋼索を捉えると、これに沿って滑走しながらフックとワイヤの摩擦力と、駒板を前方に倒す抵抗力で制動しようというものであった。しかし、この制動方式にはいろいろ問題が多く、英国でも事故が多発したためにこの方式を廃止して、しばらくは何の制動装置も用いない時期もあったほどであった。これに対して米国と仏国は、初めから横索式の制動装置を採用していたという。わが国でも昭和五年八月に仏国のシュナイダー社よりフュー式制動装置を購入して、これを加賀に装備したといわれている。このフュー式は直径約七〇〇ミリのアルミ合金ドラムの内側に特殊鋳鉄の発条状の摩擦片を持ち、この摩擦片の緊締度により制動力を調節するもので、一個のドラムで一本を構成していた。また、この時期にわが国の萱場資郎氏の発明した萱場式制動装置も完成し、これは油圧を用いた装置で、赤城に装備して実験されたといわれている。このフュー式と萱場式はともに昭和七年一月二十一日付けで制式兵器として採用されている。さらに萱場式については昭和八年一月十四日付けで、萱場式飛行機着艦制動装置二型が制式化されている。これらから見て加賀は昭和六年ごろにフュー式に、赤城と鳳翔は昭和六〜七年に萱場式に制動装置を換装したものと思われる。これらに対して、海軍最初の制式制動装置である呉式着艦制動装置一型は、昭和八年十月十一日に制式化されており、鳳翔も昭和八年ごろにこの呉式一型に換装している。この呉式一型は、呉海軍工廠電気実験部が開発した電脳ブレーキを応用したものであった。ドラムに捲き込まれた索が繰り出すと制動電波が流れて制動力を発生するもので、機種などにより性動力の加減は容易であった。昭和九年一月二十四日付けの飛行機着艦制動装置使用標準を見ると、使用できる最大重量機はフュー式では三、六〇〇キロ、萱場式では三、六〇〇キロ、呉式一型では二、五〇〇キロとされて、明確でないが大体このへんが限度であったらしく、合成風速が零の場合はさらに低下したものと思われる。この呉式はさらに改良が進められて、昭和九年五月十日に二型が、さらに昭和十年十二月十二日に三、四型がともに制式化されている。改装後の加賀と赤城はすべてこの四型を一二基(一二索)装備されていた。なお一型を装備していた龍驤も昭和十一年にこの四型に換装され、本艦の場合は六基(六索)であった。ただし、この呉式も性能上の行き詰まりから次の五型は採用とならず、高速、重量の増大化のすすむ搭載機の進歩に対して、昭和十三年に油圧式の空廠式三型が完成、さらに昭和十七年には、これを更に改良した三式一〇型が完成した。これは最大重量六、〇〇〇キロ、最大制動速度四〇m/sと優れ、一基から四索の展張ができた。この三式一〇型は大戦中の完成空母の大半に装備されたが、改装空母の多くは呉式四型を装備しており、翔鶴型もこれを装備していた。この制動装置とともに重要な着艦装置として、滑走制止索と着艦指導灯がある。制止索は現在のバリアーに相当するもので、前方のエレベーターの直後に装備して、制動失敗機が前方のエレベーターに転落したり、前方の機に追突するのを防ぐためのものである。このため起倒式の支柱間に三本の索を張り、支柱は油圧で索のショック吸収するようにしたもので、空廠式三型と称するものが昭和十年ごろに完成し、中、大型空母では二〜三基、小型空母では一基が、主に飛行甲板の前方に装備された。また他に移動式の滑走制止装置も用いられた。着艦指導灯は照星灯(青)と照門灯(赤)の二灯を飛行甲板の両側にある角度をもって装備、適切な着艦姿勢をとると、この二灯が一線に並ぶようにしたもので、昭和八年に鳳翔で実験され、以後、制式兵器として各艦に採用された。
艦橋構造物と煙突
日本最初の空母鳳翔は、英国小型空母ハーミズの計画を参考にして、飛行甲板右舷前寄りに小型で簡素な艦橋構造物を設けた、島型空母として建造された。煙突の形式は各種の案が検討されたが、結局、米空母ラングレーの改造計画に倣って、通常航行は垂直状態とし、発着艦時にはほぼ水平に倒して用いる起倒式煙突を採用し、艦橋構造物直後の右舷に三本並べて装備した。大正十三年に鳳翔で発着艦実験を実施した結果、(1)この程度の大きさの空母では、艦橋構造物は発着艦の邪魔になる。(2)煙突排煙による艦尾気流の悪影響を無くすため、排煙温度を下げる熱煙冷却装置を煙突付近に設ける必要がある、などのことが明らかになった。そのため鳳翔は、大正十四年に飛行甲板上から艦橋構造物を撤去し、その施設は飛行甲板前端直下の上部格納庫前方に移設して、平甲板型空母に改造された。これ以後、空母は平甲板型が望ましいとの意見が強固になり、大型空母建造の時代になってもこの方針が堅持された。また起倒式煙突は円滑に作動せず、故障も多かったので、ほとんど倒して状態で使用されたという。大型空母赤城、加賀は、鳳翔での発着艦実験の結論にしたがい、上部飛行甲板前端直下(上部格納庫前方)に羅針艦橋を有する。三層飛行甲板方式の平甲板型空母として設計された。検討の過程では、飛行甲板右舷に三脚檣と一体化した艦橋構造物と、大きな直立煙突を設置する案(赤城)も考えられたという。煙突の導設法は、各種の案を検討したが結論が出ず、比較実験のために両艦で異なる方式を採用した。赤城は右舷側に大小二本の横向き湾曲煙突を設け、大型の第1煙突は排煙を海面に向かわせるよう先端を斜め下方に湾曲させ、熱煙冷却装置を設置した。小型の第2煙突は巡航時に使用するもので、上方に曲げられていた。赤城の第1煙突の成績はきわめて良好で、以後の日本空母煙突装備法の標準様式になった。加賀は飛行甲板直下の上部格納庫両側に煙路を設け、艦尾の開口部から外側下方に排煙する方式を採用したが、重量と容積が莫大にのぼる上、飛行甲板後方上空の気流状態が不良で、しかも煙路から発する熱気で付近の区画が著しく高温になり、まったくの失敗であった。このため以後は採用されていない。次の小型空母龍驤も、飛行甲板前端直下に羅針艦橋を有する平甲板型としてつくられ、右舷舷側にやや後ろ向きに設けられた二本の煙突は、赤城の第1煙突と同方式とされた。ロンドン条約前後から、日本海軍の平甲板型空母指向の方針も、見直しの機運が出てきた。赤城、加賀の使用実績から、現用の施設では飛行機の発着艦指揮に不具合な点が感じられるようになったのだ。そこで昭和八年六月に、加賀の上部飛行甲板右舷前方に発着艦指揮と甲板上の飛行機管制を主目的とした塔型艦橋構造物を仮設し、同年十月まで実験使用された。その後この仮設艦橋構造物は、昭和九年一月、赤城に移設され、翌十年まで用いられている。昭和七年ごろには、日本海軍は中型以上の空母新造のさいは、飛行甲板上に艦橋構造物を設ける考えになっていた。その最初のものが、昭和七年に試設計された航空巡洋艦案(基本計画番号G6)である。本艦は、船体中央部の飛行甲板右舷側に二〇センチ砲の砲戦指揮関係施設を含む大きな艦橋構造物を有し、その後方の右舷側の低い位置に、一本の横向き煙突をやや上方に湾曲させて設置する計画だった。次いで昭和八年に設計された中型空母蒼龍の原案(基本計画番号G8)は、飛行甲板右舷に大きな艦橋構造物を設置し、その後方の右舷側に一本の直立煙突を設ける計画とされた。同じころに計画された加賀の改装原案も、同要領で計画され大きな艦橋構造物と直立煙突を右舷に設置した。これらから当時は中口径砲装備の中型、大型空母には、飛行甲板右舷に比較的大きな艦橋構造物と、それとは独立した直立煙突を設置する方針だったことがうかがえる。新たに直立煙突方式を考えたのは、舷側から横向きに突き出し、斜め下向きに湾曲させた従来の煙突は、艦が被害をうけて右舷に傾斜したさい、その先端が海中に入るおそれがあり、これを避ける目的だったのではないかと考えられる。昭和九年、友鶴事件の発生により復原性能が見直された結果、蒼龍原案と加賀改装原案はトップヘビーで風圧側面積比も過大と見なされ、取り止めとなった。そして両艦とも、必要最小限の小型の艦橋構造物に縮小され、煙突も従来の熱煙冷却装置付き斜め下向き湾曲のものに改められた。つづいて、昭和十年から赤城が改装されたが、これに先立ち航空本部は、飛行機の高性能化にともなう発艦距離の増大、諸作業の指揮に便利などの理由から、以後の空母の艦橋構造物は艦の中央に設置するよう要求した。このため赤城は、船体全長のほぼ中央に艦橋構造物を設置することになったが、ここには煙突があるので、空母史上に前例を見ない左舷側への設置とし、右舷の煙突と振り分け配置の設計になった。これは左右の重量配分でも有利であり、赤城より一年遅れの工程で建造される中型空母飛龍でも採用された。しかし、改装完成後の赤城で発着艦実験したところ、飛行甲板後部と艦の後方上空に気流の乱れが生じて不具合なことがわかり、左舷への艦橋構造物の設置は赤城、飛龍の二隻かぎりで中止され、以後はふたたび右舷設置になった。
加賀/赤城の機関部
八八艦隊計画の主力艦として建造の途中から、空母に変更されて竣工した赤城と加賀の主機関部は、いずれも巡洋戦艦あるいは戦艦当時の計画とほぼ同一のままであった。巡洋戦艦としての赤城は、四軸推進、出力一三一、二〇〇馬力、三〇ノットの計画だった。そして主機関部の構成と出力をそのままとして空母化された結果、排水量が減少したため速力は三一・二ノットに向上した。主機関部の構成は、次のようなものだった。主缶(ボイラー)は、大型のロ号艦本式重油専焼缶一一基と、小型のロ号艦本式重油・石炭混焼缶八基の合計一九基を搭載した。混焼缶は海軍の重油節約の方針により搭載されたもので、巡航時に用いられた。主機械には、一六、四〇〇馬力の技本式オールギヤード・タービン八基を搭載し、これを二基ずつ減速歯車装置で一軸にまとめ、推進軸を駆動した。この方式は、低速航行時に必要に応じて各軸のタービン一基を休止して燃料消費の経済性を増すとともに、タービンの大型化を防いで現有工場設備での製造を容易にする見地から採用されたものである。技本式タービンの構成は、高、低圧の二胴型で、高圧タービンはそれぞれ蒸気流量の五分の一と五分の四を通過させ得る二群の翼車を備え、全力時にはパラレルで、巡航時にはシリーズで運転し、低速時の蒸気消費量低減をはかっていた。蒸気条件は、圧力一九・三キロ/平方センチ、飽和温度である。一一基の重油専焼缶の排気は、右舷舷側から先端が斜め下方に湾曲して設けられた。巨大な第1煙突に導かれている。混焼缶の排気は、第一煙突の直後にあり、これとは逆に先端を上方に曲げた第2煙突が使えないので、全速力よりやや低い速力でしか運用できなかったものと思われる。燃料搭載量は重油三、九〇〇トン、石炭二、一〇〇トンで、航続力は一四ノットで八、〇〇〇カイリだった。赤城は昭和十〜十三年に近代化改装が行なわれたが、速力に不足がなく改装費用も少なかったので、機関部については八基の混焼缶を重油専焼に改造し、燃料をすべて重油としたに止まった。従って、機関出力は一三三、〇〇〇馬力とわずかに増加しただけで、速力は三一・二ノットとなった。ただ燃料搭載量の増大(重油五、七七〇トン)により、航続力は一六ノットで八、二〇〇カイリに延伸した。加賀は、戦艦時代には四軸推進、出力九一、〇〇〇馬力、速力二六・五ノット、主缶は重油専焼缶八基、重油・石炭混焼缶四基の計画とされていた。空母への改造では、主機械と出力は同一だったが、排水量が減じた分だけ速力は向上して二七・五ノット(計画速力)になった。主缶はロ号艦本式重油専焼缶一二基で、空母化に際し戦艦時代の混焼缶は重油専焼式に改造され、この点が赤城と大きく異なる。この排気は赤城と異なり、上部格納庫両側の飛行甲板下を艦尾まで設けられ、斜め外方に開口した煙突に導かれている。主機械は、二二、七五〇馬力のブラウン・カーチス式オールギヤード・タービン四基で、各推進軸に一基ずつ結合されている。このタービンは、赤城と同様に高、低圧の二胴型である。蒸気条件は、圧力二〇キロ/平方センチ、飽和温度に向上している。重油燃料搭載量は五、三〇〇トンで、航続力は一四ノットで八、〇〇〇カイリである。加賀は昭和八〜九年に近代化改装が実施され、速力向上のため主機関の近代化と出力増大がはかられた。主缶は従来のものを撤去し、新たにロ号艦本式重油専焼缶(空気予熱器付き)八基を搭載し、缶室の配置も改良した。これに伴ない煙突も改正され、赤城の第1煙突に似た方式に改められた。主機械は、前部機械室の二基(内軸用)を、単機出力三八、〇〇〇馬力の艦本式高、中、低圧式ギヤード・タービン二基と換装した。後部機械室のタービンは、従来のままである。新しいタービンは、巡洋艦最上型の主機と同一のもので(減速装置だけは新設計)、高圧、中圧、低圧、巡航の各タービンで構成され、巡航速力の場合は巡航タービンから排出された蒸気を、後部主機械の高圧タービンに導入し、四軸航行として燃料消費の低減をはかるようにされた。機関部の改正により、出力は一二五、〇〇〇馬力に増大し、速力は二八・三ノットに向上した。また、重油燃料搭載量は九、二〇〇トンに増え、航続距離は一六ノットで一〇、〇〇〇カイリに延伸している。
加賀は昭和四年十一月、艦隊に配備されて本格的な航空母艦としての運用を実施してきたが、その結果、空母としての機能上、問題となる数々の欠点があらわれてきた。加賀は本来、戦艦として建造されたものであったため、赤城に比較して船体は短く、このため上部飛行甲板の長さも約二〇メートル短く、また速力も二六ノットで空母としては低速であった。また三段式飛行甲板(実際には二段しか使用できなかった)も、艦載機の新型化にともない運用上の問題も生じてきていた。さらに艦中央部より飛行甲板下に沿わせて、艦尾に導設された煙路の導設方法も問題であり、艦尾から排出される排煙により艦尾付近の気流が乱され、艦載機の運用にも支障を生じるとともに、煙路側の居住区は高温のため、夏季は居住不可能の状態となる悪循環にさらされていた。これらの空母としての機能上の諸問題を改善するため艦隊配備後、間もなく改装計画が立てられたが、予算の関係からその実施は延び延びとなっていた。昭和八年に至って加賀改装の予算が認められ、海軍技術会議により改装計画が検討され、昭和八年十月より佐世保工廠で大改装工事が実施されることとなった。加賀の大改装工事の主な内容は、次のとおりである。
(1)搭載機数の増加。
(2)飛行甲板を単一甲板とし、これを出来るだけ延長する。
(3)速力の増大。
(4)煙突の湾曲煙突への改装。
(5)飛行甲板上の塔型艦橋の設置。
(6)対空兵装の強化。
(7)航続距離の増大。
加賀の改装にあたっては、各種の案が検討されたが、昭和九年二月に航空廠で実施された風洞実験モデルによると、飛行甲板は最上部一段とされ、艦首先端部まで延長するとともに、上部、中部格納庫も艦首先端部まで延長されており、さらに飛行甲板右舷前部には大型の塔型艦橋と直立した煙突を持つ艦容となっていた。さらに煙突については後の空母隼鷹、飛鷹、大鳳、信濃に搭載された右に傾いた傾斜煙突の検討も行なわれたが、この直後に発生した友鶴事件に鑑み、重心降下をはかり復原力を保持するため、次に述べるような改装内容となった。飛行甲板延長については三段式飛行甲板の中部、下部飛行甲板を廃止し、上部飛行甲板一層とし、これをできるだけ延長するものとされたが、船体尾部を延長し、艦尾方向への飛行甲板延長をはかるとともに、艦首方向へも従来の上部飛行甲板前端部から艦首ぎりぎりまで延長し、これにより長さ二四八・六メートル、幅三〇・五メートルと改装前に比べると、約七七メートルの延長がはかられた。飛行甲板の延長とともに搭載機数の増大をはかるため、格納庫も拡張されたが、従来の上部、中部格納庫が前方に延長された。当初計画では前述のとおり格納庫を艦首一杯まで延長することとなっていたが、友鶴事件に鑑み、風圧面積を減ずるため、艦首から約二三メートルのところまで延長することに変更されたものである。また上部格納庫の側壁は、解放式とされていたのを側壁を持った密閉式に改装された。この格納庫の拡張にともない搭載機数も常用七二機、補用機一八機の合計九〇機と大幅に増加したが、内訳は九〇式艦戦一二+三、八九式艦攻三六+九、九四式艦爆二四+六機である。艦載機昇降用エレベーターは従来、前後部各一基が装備されていたが、前部エレベーターの前方の飛行甲板、格納庫の延長部に一基が増設されて合計三基となり、後部エレベーターに取り付けられていた天蓋は、重量軽減のため撤去された。さらに着艦制動装置についても、従来の萱場式から呉式四型に改められ、横索一〇本を装備した。また同時に着艦に失敗した艦載機を制止するため、前部および中部エレベーター直後に空技廠式滑走制止装置を一基ずつ装備したほか、移動式滑走制止装置二基、応急用滑走制止装置一基を装備した。また着艦指導灯も装備され、艦載機着艦の安全がはかられた。さらに飛行甲板前端部に発艦促進装置二基を装備する計画で、後日装備のため事前工事のみが実施されたが、けっきょく有効なカタパルトの開発ができず未装備に終わってしまった。速力増大に関しては、従来の再高速力二七ノットを三〇ノットとすべく計画され、船体形状を改善し、水中抵抗減少をはかるため艦尾を約八メートル延長したほか、機関の軸馬力を九一、〇〇〇馬力から一二七、四〇〇馬力へアップするための主機、主缶の換装と改装が実施された。従来のロ号艦本式重油専焼缶一二基は撤去され、小型大力量のロ号艦本式空気予熱器付き重油専焼缶を搭載し、缶室も前方に延長し、主缶八基を一缶一室配置に改めた。主機械は、四組のタービンのうち内側軸の二組を、最上型軽巡に搭載されたタービンと同型のものに換装するとともに、推進器もより推進効率の高い形状のものに交換された。この主缶、主機換装により加賀の出力は一二七、四〇〇馬力に増大し、速力は前述の船型改正と相まって計画出力三〇ノットには達しなかったものの、公試運転では二八・三四ノットを記録した。航続力増大については、新造時の重油等最良六、〇〇〇トンと、一四ノットで八、〇〇〇カイリであったものを、重油満載量を七、五〇〇トンに増加させ、一六ノットで一〇、〇〇〇カイリに延長した。重油搭載量増加のため、主缶、機械室間の舷側二重底内の水雷防御区画内に新たに重油庫を設けた。煙突は従来の両舷にわけて艦尾へ煙路を導設した型式の煙突を撤去し、換装した八基の主缶からの八本の煙道を右舷側にまとめ、右舷舷側から下方に湾曲した巨大な煙突より排出するように改装された。前述のとおり当初計画では右舷飛行甲板前部に直立した大型煙突を設置するものとしていたが、風圧面積を減少させるためと重心降下のため、湾曲煙突に改められたものである。湾曲煙突には熱煙冷却装置が設けられており、艦載機の離着艦の場合は排煙による艦載機への影響を防止するため、海水を煙突出口に噴射し、排煙温度を低下させる仕組みになっていた。改装前の艦橋は中部飛行甲板前端部に設けられていたが、操艦および艦載機の発着艦指揮にきわめて不便であったため、大改装前に上部飛行甲板右舷前部に試験的に仮設の小型艦橋が設けられていたが、大改装工事にあたっては大型の塔型艦橋を、飛行甲板上右舷に設ける計画となっていた。しかし友鶴事件にともなう改正から大型艦橋の搭載は中止され、羅針艦橋、操舵室、発着艦指揮所を設けた四層の小型艦橋に変更され、右舷前部に搭載された。兵装関係では、主兵装の中部飛行甲板前部両舷に装備されていた二〇センチ連装砲塔は、飛行甲板の一層化にともない撤去されたが、後部中甲板両舷に砲廓式に二〇センチ単装砲二門が追加装備され、片舷砲力は改装前と同じ五門とされた。しかし五門とも舷側砲廓式装備であるため、改装前に比較し、艦首方向への射界は著しく制限されるようになった。対空兵装は著しく増強されたが、一二センチ連装高角砲六基をすべて撤去し、これを新式の四〇口径八九式一二・七センチ連装高角砲八基に換装し、右舷は前部二基、後部二基、左舷は前部一基、中央部三基を配置したが、装備位置を従来より一段高め、反対舷に対しても二〇度以上の仰角で射撃可能とした。右舷の煙突後部に装備された。二基に対しては、煙突からの煤煙防止のため高角砲全周を覆う楯が装備されている。また射撃指揮装置として九一式高射装置が両舷各一基装備とされた。対空機銃についても増強がはかられた。一三ミリ連装機銃は撤去され、新たに二五ミリ連装機銃一一基が装備されたが、機銃は飛行甲板舷側の機銃台上に、右舷後部五基、左舷前部二基、後部四基が装備された。なお加賀の大改装時の対空機銃装備数は、二五ミリ連装機銃一一基とする資料と一四基とする資料があるが、昭和十二年五月に撮影した写真では、先に述べた装備位置のほか、右舷艦橋下に二基、左舷前部に一基が装備され一四基となっており、大改装後、追加装備されて一四基となったのか、大改装時に一四基装備となったのか明らかでない。このほか揚弾機構は、艦載機の搭載する爆弾、魚雷は爆弾庫、魚雷庫から揚弾筒により防御甲板上に揚げられ、さらに別個の揚弾筒に移し替えられ、格納庫、飛行甲板に揚弾する中継式のものであったが、これを揚弾庫から格納庫および飛行甲板に直接揚弾できる機構に改めた。なお揚爆弾筒は爆弾のみならず、魚雷にも兼用できるものとした。また艦載機搭載数増加にともない。爆弾庫および魚雷庫の拡張が行なわれ、爆弾、魚雷の搭載数増加がはかられた。この改装により加賀の基準排水量は改装前より約八、七〇〇トン増大して三八、二〇〇トンとなり、満載排水量は四二、五〇〇トンと大幅に増大したが、改装工事により重心点の上昇をきたし、GM値が減少したので船体中央部水線部に、従来のバルジの上にバルジを新設した。加賀の大改装工事は昭和十年十一月に完了し、強力な大型攻撃空母に生まれ変わった加賀は、十年十一月十五日付けで第2艦隊第2航空戦隊に編入され艦隊に復帰した。
赤城の大改装工事
加賀の大改装工事に引き続き、赤城の大改装工事が実施されたが、赤城は昭和十年十一月十五日付けで第3予備艦に編入され、佐世保工廠で第二次改装工事(第一次は巡洋戦艦から空母への改装工事)に着手した。本艦の近代化を目的とする大改装工事の内容は加賀に準じたものであったが、大改装工事にあたり軍令部の要求してきた内容は、次のようなものであった。
(1)飛行甲板を最上層のもの一段とし、これを延長して長大なものとする。
(2)格納庫を増設して搭載機数の増加をはかる。
(3)対空兵装を強化する。
(4)艦橋を塔型艦橋とする。
(5)艦載機昇降用エレベーターの増設と改善。
(6)爆弾、魚雷および航空機用燃料搭載量の増加と関連諸装置の改善、整備。
(7)ボイラーはすべて重油専焼缶とし、後方煙突が上向きになっているのを下向きとする。
この軍令部要求案に対して、海軍省側としては改装予算も充分でないので、改装は最小範囲に止めなければならないという事情もあり、改装要領については海軍省と軍令部で折衝の結果、(1)対空兵装強化については、高角砲の換装は見送る。(2)撤去する二〇センチ連装砲二基のかわりに、舷側部への砲廓式二〇センチ単装砲の増設は実施しない。(3)機関部の大幅な改正は行なわない。などの軍令部要求に対する変更事項の確認を行ない、その他については軍令部要求案どおり実施することで改装内容が決定した。飛行甲板延長については、中部および下部飛行甲板を撤去し、最上層の上部飛行甲板を艦の前端まで延長することとされたが、後部昇降機の前方に縦張り鋼索制動装置を装備していたとき、鋼索の後端部を止めるため飛行甲板に段が付いていたので、これを無くするため、段の付いている部分から前方を上げて飛行甲板を平坦化するように要求されたが、これをやると極めて大工事になるため、段付き部に板を張って傾斜をゆるやかにする工事がなされた。飛行甲板の前部への三二メートル延長にともない、赤城の飛行甲板は二四九メートル、中央部幅三〇・四八メートルとなり、艦載機の運用能力は大幅に向上した。格納庫の増設については、上部格納庫前の羅針艦橋ほか関係諸室および二〇センチ連装砲を撤去するともに中部、下部飛行甲板を撤去し、上部および中部格納庫を艦首錨甲板まで延長した。また上部格納庫は新造時は側壁のない解放式であったが、鋼板により閉塞されて密閉式構造とされた。なお密閉化にあたっては、格納庫幅を広くとるため現在の支柱を撤去し、新しい支柱を建てるよう要求があったが、支柱の取り替えは大工事となるため支柱の外側に側壁を張り、できるだけ内幅を広くするよう配慮された。格納庫の増設、改装にあわせて飛行機昇降機の増設と改正も行なわれたが、昇降機の増設は加賀の前部への増設と異なり、赤城では中央部に一基増設された。また前部昇降機は艦中心線より右舷側に配置されており、幅一一・八メートル、長さ一三・〇メートルの前後方向に長手の短形型であったが、この型式では格納庫に艦載機を出し入れするとき、艦載機の向きをその都度、変えなくてはならず、運用上、不具合があった。このため前部昇降機を横に長くし、幅一六メートル、長さ一四・五メートルの長方形のものに改正したが、このため最上甲板の昇降機の孔の大規模な補強工事が必要となり、甲板面のみならず、外板にも相当な補強工事が実施された。後部昇降機天蓋は、加賀では重量軽減のため撤去されたが、赤城でも撤去が検討されたものの、天蓋の脚が艦載機昇降作業に不便があるが、天蓋があるため艦載機着艦時でも上部、中部格納庫の昇降機面に床ができるため、庫内の艦載機整理に便利がよいという意見もあり、艦の復原性能上もあまり問題がないため、結局、現状どおり装備と決定した。なお増設された中部昇降機寸法は長さ一一・八メートル、幅一三メートルで、四角形に近い形状をもっていた。着艦制動装置もほぼ加賀と同形式とされたが、呉式四型着艦制動装置が装備され、後部昇降機から中部昇降機の間に横索四本を装備した。また滑走制止装置は固定式二基が中部、前部昇降機の後方に各一基装備されたほか、移動式滑走制止装置二基、応急用滑走制止装置一基も装備された。また発艦促進装置も加賀と同じく飛行甲板前部に装備する計画で、事前工事が実施されたが、結局、装備に至らなかった。遮風装置は前部昇降機の前後部に各一基が装備された。格納庫の増設にともない艦載機の搭載数は改装前に比較し、約五〇パーセント増加し、合計九一機の搭載が可能となったが、その内訳は九六式艦上戦闘機常用一二機(補用四機)、九六式艦上攻撃機常用二五機(補用一六機)、九六式艦上爆撃機常用一九機(補用五機)であった。爆弾、魚雷および航空機用燃料搭載量は、搭載機全機が三回の攻撃に飛び立ち、なお偵察および煙幕展張を行なうに必要な量を搭載するものとし、防御甲板下に爆弾庫、魚雷庫、軽質油庫が増設され、前後部に揚爆弾筒が装備されたが、前部揚爆弾筒は飛行甲板まで揚弾可能であり、後部揚爆弾筒は上部格納庫まで揚弾可能であった。また軸質油ポンプは大容量のものが装備され、特に飛行甲板前部で強力に給油できるように設計されたが、飛行甲板各所および上部、中部格納庫の各所でも給油可能なようになっていた事はもちろんである。艦橋構造物は加賀と同じく飛行甲板上に設置されたが、設置位置については航空関係者より、加賀のように発艦区域内の前部に置くと発艦作業に支障があり、また甲板後部から中央部にかけての着艦区域内は、無障害の区域が長大なほうが望ましいとする意見が出され、塔型艦橋は艦中央部に置く必要があり、右舷側には煙突があるため必然的に左舷配置とせざるを得なかった。このため実艦において実大模型により実験を行なうこととなり、改装前の赤城飛行甲板上で、改装後の塔型艦橋設置位置に実大模型艦橋を設置し、横須賀および横須賀から改装のため佐世保へ回航する途中に、艦載機の発着艦実験および気流測定を行ない、ようやく左舷中央部設置を決定した。しかし赤城改装完了後の実際の運用結果では、離着艦に中央艦橋はかえって不便な面があり、中央艦橋方式を採用したのは本艦と飛龍のみで、後に建造された翔鶴、瑞鶴でも当初計画では中央艦橋方式としていたが、建造途中から右舷前方に変更している。主機械については、予算の関係もあり、また本艦の最高速力は三一・七五ノットと、空母として充分な速力を有していたため、加賀のような大幅な改正は実施されず、新造時搭載のロ号艦本式重油専焼缶一一基、同小型混焼缶八基および技本式高低圧タービン四組のうち、小型混焼缶八基を重油専焼缶に改造する工事のみが実施されたが、これにより機関出力は新造時の一三二、〇〇〇馬力から一三三、〇〇〇馬力に若干出力が増大した。しかし大改装工事による排水量増大のため、最高速力は三一・二ノットと改装前より若干低下する結果となった。航続力増大については、改装前の燃料搭載量の重油三、九〇〇トン、石炭二、一〇〇トンを、全缶重油専焼缶となったのに伴ない、燃料タンクを改装して重油搭載量を五、七七〇トンに増大させ、一四ノットで八、〇〇〇カイリであった航続距離を、一六ノットで八、二〇〇カイリに延伸した。また煙突については、改装前の第1〜4缶室に装備された大型缶一一基の煙道を集めた下向き前部大型煙突と、第5、第6缶室に装備された小型缶八基の煙道を集めた上向き後部煙突の二本となっていたのを、一本の大型下向き煙突にまとめた。これにより赤城の煙突は右舷中央部に下向きに湾曲した巨大な一本煙突となったが、上向き煙突の廃止により、艦載機の離着艦時の排煙による影響はきわめて少なくなった。兵装については、主兵装の前部、中部飛行甲板に装備されていた二〇センチ連装砲塔は撤去されたが、加賀のように後部中甲板の砲廓式単装砲の増強はされず、片舷三門のままとされた。赤城は新造時より増設用の四門分のガンサポートを装備していたが、これはそのまま残された。対空兵装は予算上の制約から、新造時に装備した片舷三基一〇年式一二センチ連装砲の換装は実施されず、そのまま装備されることとなったが、射撃指揮装置に九一式高射装置が装備され、射撃精度の向上がはかられた。そのかわり近接防御用の対空機銃は加賀より強化され、これまで装備されていた一三ミリ連装機銃は撤去され、九六式二五ミリ連装機銃一四基が射撃指揮装置とともに装備された。装備位置は前部昇降機ふきん両舷舷側の機銃座に各三基、後部昇降機ふきん両舷装備の機銃座に各四基で、各部に一基ずつの九五式機銃射撃装置が装備された。赤城の高角砲換装は開戦までに遂に実施されず、一二センチ連装高角砲装備のままで太平洋戦争に突入したが、一〇年式一二センチ連装高角砲と八九式一二・七センチ連装高角砲では、性能に大きな差があり、本艦の対空防御能力は加賀より劣る結果となった。赤城の大改装工事は昭和十三年八月三十一日に完了し、十三年十二月十五日付けで第1艦隊第1航空戦隊に編入され、ただちに中国水域での戦闘任務についた。
着艦装置の発達
第一次大戦末期に英国で本格的空母が出現したときに、大きな技術的課題となったものの一つが、着艦制動装置であろう。これは一九一一年一月に、米国のエリイが世界で最初に装甲巡ペンシルバニアの後甲板に着艦したときは、両側に砂袋を結び付けた制動装置を用いた。理論的にはこの横索式が自然であるのはわかり切ってはいたが、当時この制動力としてのブレーキ機構に適当なアイデアがなく、英国が最初に採用したのは縦索式のものであった。これは日本でも最初の鳳翔以下赤城、加賀の各艦に採用された。これには制式名称はなく、鳳翔の場合、艦尾より前方へ約一〇〇メートルの長さに渡り、直径一二ミリの鋼索を一五センチ間隔で幅二〇メートルに渡って縦に張り渡し、これを九ヵ所の駒板で甲板上一五センチの高さに持ち上げたもので、着艦機は車輪の間に五個のフックを持ち、これでこの鋼索を捉えると、これに沿って滑走しながらフックとワイヤの摩擦力と、駒板を前方に倒す抵抗力で制動しようというものであった。しかし、この制動方式にはいろいろ問題が多く、英国でも事故が多発したためにこの方式を廃止して、しばらくは何の制動装置も用いない時期もあったほどであった。これに対して米国と仏国は、初めから横索式の制動装置を採用していたという。わが国でも昭和五年八月に仏国のシュナイダー社よりフュー式制動装置を購入して、これを加賀に装備したといわれている。このフュー式は直径約七〇〇ミリのアルミ合金ドラムの内側に特殊鋳鉄の発条状の摩擦片を持ち、この摩擦片の緊締度により制動力を調節するもので、一個のドラムで一本を構成していた。また、この時期にわが国の萱場資郎氏の発明した萱場式制動装置も完成し、これは油圧を用いた装置で、赤城に装備して実験されたといわれている。このフュー式と萱場式はともに昭和七年一月二十一日付けで制式兵器として採用されている。さらに萱場式については昭和八年一月十四日付けで、萱場式飛行機着艦制動装置二型が制式化されている。これらから見て加賀は昭和六年ごろにフュー式に、赤城と鳳翔は昭和六〜七年に萱場式に制動装置を換装したものと思われる。これらに対して、海軍最初の制式制動装置である呉式着艦制動装置一型は、昭和八年十月十一日に制式化されており、鳳翔も昭和八年ごろにこの呉式一型に換装している。この呉式一型は、呉海軍工廠電気実験部が開発した電脳ブレーキを応用したものであった。ドラムに捲き込まれた索が繰り出すと制動電波が流れて制動力を発生するもので、機種などにより性動力の加減は容易であった。昭和九年一月二十四日付けの飛行機着艦制動装置使用標準を見ると、使用できる最大重量機はフュー式では三、六〇〇キロ、萱場式では三、六〇〇キロ、呉式一型では二、五〇〇キロとされて、明確でないが大体このへんが限度であったらしく、合成風速が零の場合はさらに低下したものと思われる。この呉式はさらに改良が進められて、昭和九年五月十日に二型が、さらに昭和十年十二月十二日に三、四型がともに制式化されている。改装後の加賀と赤城はすべてこの四型を一二基(一二索)装備されていた。なお一型を装備していた龍驤も昭和十一年にこの四型に換装され、本艦の場合は六基(六索)であった。ただし、この呉式も性能上の行き詰まりから次の五型は採用とならず、高速、重量の増大化のすすむ搭載機の進歩に対して、昭和十三年に油圧式の空廠式三型が完成、さらに昭和十七年には、これを更に改良した三式一〇型が完成した。これは最大重量六、〇〇〇キロ、最大制動速度四〇m/sと優れ、一基から四索の展張ができた。この三式一〇型は大戦中の完成空母の大半に装備されたが、改装空母の多くは呉式四型を装備しており、翔鶴型もこれを装備していた。この制動装置とともに重要な着艦装置として、滑走制止索と着艦指導灯がある。制止索は現在のバリアーに相当するもので、前方のエレベーターの直後に装備して、制動失敗機が前方のエレベーターに転落したり、前方の機に追突するのを防ぐためのものである。このため起倒式の支柱間に三本の索を張り、支柱は油圧で索のショック吸収するようにしたもので、空廠式三型と称するものが昭和十年ごろに完成し、中、大型空母では二〜三基、小型空母では一基が、主に飛行甲板の前方に装備された。また他に移動式の滑走制止装置も用いられた。着艦指導灯は照星灯(青)と照門灯(赤)の二灯を飛行甲板の両側にある角度をもって装備、適切な着艦姿勢をとると、この二灯が一線に並ぶようにしたもので、昭和八年に鳳翔で実験され、以後、制式兵器として各艦に採用された。
艦橋構造物と煙突
日本最初の空母鳳翔は、英国小型空母ハーミズの計画を参考にして、飛行甲板右舷前寄りに小型で簡素な艦橋構造物を設けた、島型空母として建造された。煙突の形式は各種の案が検討されたが、結局、米空母ラングレーの改造計画に倣って、通常航行は垂直状態とし、発着艦時にはほぼ水平に倒して用いる起倒式煙突を採用し、艦橋構造物直後の右舷に三本並べて装備した。大正十三年に鳳翔で発着艦実験を実施した結果、(1)この程度の大きさの空母では、艦橋構造物は発着艦の邪魔になる。(2)煙突排煙による艦尾気流の悪影響を無くすため、排煙温度を下げる熱煙冷却装置を煙突付近に設ける必要がある、などのことが明らかになった。そのため鳳翔は、大正十四年に飛行甲板上から艦橋構造物を撤去し、その施設は飛行甲板前端直下の上部格納庫前方に移設して、平甲板型空母に改造された。これ以後、空母は平甲板型が望ましいとの意見が強固になり、大型空母建造の時代になってもこの方針が堅持された。また起倒式煙突は円滑に作動せず、故障も多かったので、ほとんど倒して状態で使用されたという。大型空母赤城、加賀は、鳳翔での発着艦実験の結論にしたがい、上部飛行甲板前端直下(上部格納庫前方)に羅針艦橋を有する。三層飛行甲板方式の平甲板型空母として設計された。検討の過程では、飛行甲板右舷に三脚檣と一体化した艦橋構造物と、大きな直立煙突を設置する案(赤城)も考えられたという。煙突の導設法は、各種の案を検討したが結論が出ず、比較実験のために両艦で異なる方式を採用した。赤城は右舷側に大小二本の横向き湾曲煙突を設け、大型の第1煙突は排煙を海面に向かわせるよう先端を斜め下方に湾曲させ、熱煙冷却装置を設置した。小型の第2煙突は巡航時に使用するもので、上方に曲げられていた。赤城の第1煙突の成績はきわめて良好で、以後の日本空母煙突装備法の標準様式になった。加賀は飛行甲板直下の上部格納庫両側に煙路を設け、艦尾の開口部から外側下方に排煙する方式を採用したが、重量と容積が莫大にのぼる上、飛行甲板後方上空の気流状態が不良で、しかも煙路から発する熱気で付近の区画が著しく高温になり、まったくの失敗であった。このため以後は採用されていない。次の小型空母龍驤も、飛行甲板前端直下に羅針艦橋を有する平甲板型としてつくられ、右舷舷側にやや後ろ向きに設けられた二本の煙突は、赤城の第1煙突と同方式とされた。ロンドン条約前後から、日本海軍の平甲板型空母指向の方針も、見直しの機運が出てきた。赤城、加賀の使用実績から、現用の施設では飛行機の発着艦指揮に不具合な点が感じられるようになったのだ。そこで昭和八年六月に、加賀の上部飛行甲板右舷前方に発着艦指揮と甲板上の飛行機管制を主目的とした塔型艦橋構造物を仮設し、同年十月まで実験使用された。その後この仮設艦橋構造物は、昭和九年一月、赤城に移設され、翌十年まで用いられている。昭和七年ごろには、日本海軍は中型以上の空母新造のさいは、飛行甲板上に艦橋構造物を設ける考えになっていた。その最初のものが、昭和七年に試設計された航空巡洋艦案(基本計画番号G6)である。本艦は、船体中央部の飛行甲板右舷側に二〇センチ砲の砲戦指揮関係施設を含む大きな艦橋構造物を有し、その後方の右舷側の低い位置に、一本の横向き煙突をやや上方に湾曲させて設置する計画だった。次いで昭和八年に設計された中型空母蒼龍の原案(基本計画番号G8)は、飛行甲板右舷に大きな艦橋構造物を設置し、その後方の右舷側に一本の直立煙突を設ける計画とされた。同じころに計画された加賀の改装原案も、同要領で計画され大きな艦橋構造物と直立煙突を右舷に設置した。これらから当時は中口径砲装備の中型、大型空母には、飛行甲板右舷に比較的大きな艦橋構造物と、それとは独立した直立煙突を設置する方針だったことがうかがえる。新たに直立煙突方式を考えたのは、舷側から横向きに突き出し、斜め下向きに湾曲させた従来の煙突は、艦が被害をうけて右舷に傾斜したさい、その先端が海中に入るおそれがあり、これを避ける目的だったのではないかと考えられる。昭和九年、友鶴事件の発生により復原性能が見直された結果、蒼龍原案と加賀改装原案はトップヘビーで風圧側面積比も過大と見なされ、取り止めとなった。そして両艦とも、必要最小限の小型の艦橋構造物に縮小され、煙突も従来の熱煙冷却装置付き斜め下向き湾曲のものに改められた。つづいて、昭和十年から赤城が改装されたが、これに先立ち航空本部は、飛行機の高性能化にともなう発艦距離の増大、諸作業の指揮に便利などの理由から、以後の空母の艦橋構造物は艦の中央に設置するよう要求した。このため赤城は、船体全長のほぼ中央に艦橋構造物を設置することになったが、ここには煙突があるので、空母史上に前例を見ない左舷側への設置とし、右舷の煙突と振り分け配置の設計になった。これは左右の重量配分でも有利であり、赤城より一年遅れの工程で建造される中型空母飛龍でも採用された。しかし、改装完成後の赤城で発着艦実験したところ、飛行甲板後部と艦の後方上空に気流の乱れが生じて不具合なことがわかり、左舷への艦橋構造物の設置は赤城、飛龍の二隻かぎりで中止され、以後はふたたび右舷設置になった。
加賀/赤城の機関部
八八艦隊計画の主力艦として建造の途中から、空母に変更されて竣工した赤城と加賀の主機関部は、いずれも巡洋戦艦あるいは戦艦当時の計画とほぼ同一のままであった。巡洋戦艦としての赤城は、四軸推進、出力一三一、二〇〇馬力、三〇ノットの計画だった。そして主機関部の構成と出力をそのままとして空母化された結果、排水量が減少したため速力は三一・二ノットに向上した。主機関部の構成は、次のようなものだった。主缶(ボイラー)は、大型のロ号艦本式重油専焼缶一一基と、小型のロ号艦本式重油・石炭混焼缶八基の合計一九基を搭載した。混焼缶は海軍の重油節約の方針により搭載されたもので、巡航時に用いられた。主機械には、一六、四〇〇馬力の技本式オールギヤード・タービン八基を搭載し、これを二基ずつ減速歯車装置で一軸にまとめ、推進軸を駆動した。この方式は、低速航行時に必要に応じて各軸のタービン一基を休止して燃料消費の経済性を増すとともに、タービンの大型化を防いで現有工場設備での製造を容易にする見地から採用されたものである。技本式タービンの構成は、高、低圧の二胴型で、高圧タービンはそれぞれ蒸気流量の五分の一と五分の四を通過させ得る二群の翼車を備え、全力時にはパラレルで、巡航時にはシリーズで運転し、低速時の蒸気消費量低減をはかっていた。蒸気条件は、圧力一九・三キロ/平方センチ、飽和温度である。一一基の重油専焼缶の排気は、右舷舷側から先端が斜め下方に湾曲して設けられた。巨大な第1煙突に導かれている。混焼缶の排気は、第一煙突の直後にあり、これとは逆に先端を上方に曲げた第2煙突が使えないので、全速力よりやや低い速力でしか運用できなかったものと思われる。燃料搭載量は重油三、九〇〇トン、石炭二、一〇〇トンで、航続力は一四ノットで八、〇〇〇カイリだった。赤城は昭和十〜十三年に近代化改装が行なわれたが、速力に不足がなく改装費用も少なかったので、機関部については八基の混焼缶を重油専焼に改造し、燃料をすべて重油としたに止まった。従って、機関出力は一三三、〇〇〇馬力とわずかに増加しただけで、速力は三一・二ノットとなった。ただ燃料搭載量の増大(重油五、七七〇トン)により、航続力は一六ノットで八、二〇〇カイリに延伸した。加賀は、戦艦時代には四軸推進、出力九一、〇〇〇馬力、速力二六・五ノット、主缶は重油専焼缶八基、重油・石炭混焼缶四基の計画とされていた。空母への改造では、主機械と出力は同一だったが、排水量が減じた分だけ速力は向上して二七・五ノット(計画速力)になった。主缶はロ号艦本式重油専焼缶一二基で、空母化に際し戦艦時代の混焼缶は重油専焼式に改造され、この点が赤城と大きく異なる。この排気は赤城と異なり、上部格納庫両側の飛行甲板下を艦尾まで設けられ、斜め外方に開口した煙突に導かれている。主機械は、二二、七五〇馬力のブラウン・カーチス式オールギヤード・タービン四基で、各推進軸に一基ずつ結合されている。このタービンは、赤城と同様に高、低圧の二胴型である。蒸気条件は、圧力二〇キロ/平方センチ、飽和温度に向上している。重油燃料搭載量は五、三〇〇トンで、航続力は一四ノットで八、〇〇〇カイリである。加賀は昭和八〜九年に近代化改装が実施され、速力向上のため主機関の近代化と出力増大がはかられた。主缶は従来のものを撤去し、新たにロ号艦本式重油専焼缶(空気予熱器付き)八基を搭載し、缶室の配置も改良した。これに伴ない煙突も改正され、赤城の第1煙突に似た方式に改められた。主機械は、前部機械室の二基(内軸用)を、単機出力三八、〇〇〇馬力の艦本式高、中、低圧式ギヤード・タービン二基と換装した。後部機械室のタービンは、従来のままである。新しいタービンは、巡洋艦最上型の主機と同一のもので(減速装置だけは新設計)、高圧、中圧、低圧、巡航の各タービンで構成され、巡航速力の場合は巡航タービンから排出された蒸気を、後部主機械の高圧タービンに導入し、四軸航行として燃料消費の低減をはかるようにされた。機関部の改正により、出力は一二五、〇〇〇馬力に増大し、速力は二八・三ノットに向上した。また、重油燃料搭載量は九、二〇〇トンに増え、航続距離は一六ノットで一〇、〇〇〇カイリに延伸している。
新造時の加賀
加賀は大正九年七月十九日、八八艦隊戦艦の第二陣加賀型の一番艦として、神戸川崎造船所で起工され、十年十一月十七日に進水した。進水後はワシントン条約の締結により工事を中止していたが、その廃棄が決定された。しかし空母への改造を予定していた巡洋戦艦天城、赤城のうち、横須賀工廠で建造中の天城が大正十二年の関東大震災により船台上で損壊、進水が不可能となったため、急きょその代換として本艦が空母に改造されることになったもので、これはワシントン条約締結国の了解を得て決定された。加賀は進水後、横須賀に回航されて処分を待っていたが、この決定により大正十二年十二月十三日に空母への改造工事に着手するところとなった。加賀の空母への改装工事は、基本的には赤城の場合と同じであったが、赤城の巡洋戦艦に対して戦艦である加賀は長さも短く、速力も低速で空母としては、あまり有利な点は少なかったが、代換艦として他に適当な艦もなく致し方なかった。とくに赤城に対して最大の相違は煙突の形態であり、赤城の舷側湾曲煙突に対して、煙路を飛行甲板に沿って、艦尾まで遠く誘導煙突方式が採用された。これは当時、空母の煙突としてまだ形態が確立しておらず、試行錯誤の時代であったことから見れば、致し方ないところであった。加賀は昭和三年三月三十一日に、いちおう形式的には竣工したとして引き渡しを終えたが、実際には赤城の予算不足分を本艦分より流用したこともあって、予算が大幅に不足して思うように工事が進行せず、実際に工事を完了したのは昭和四年十二月のことで、実際の引き渡しは赤城以上に大幅に遅れたのであった。加賀の新造時の主要目は次のとおりであった。
基準排水量(計画)=二六、九〇〇トン
〃 (実際)=二九、五〇〇トン
公試排水量=三三、六九三トン
全長=二三八・五メートル
水線長(公試)=二三〇・〇メートル
垂線間長=二一七・九三メートル
最大幅=三一・六七メートル
水線幅(公試)=二九・五七メートル
平均吃水(公試)=七・九二メートル
深さ(飛行甲板)=二九・五七メートル
〃 (最上甲板)=一八・六七メートル
飛行甲板長(上段)=一七一・三〇メートル
〃 幅( 〃 )=三〇・四八メートル
〃 長(下段)=五五・〇二メートル
〃 幅( 〃 )=二四・三八メートル
主機=ブラウン・カーチス式ギアード・タービン四組
軸数=四
缶=ロ号艦本式専焼缶大型八基、同小型四基
出力(計画)=九一、〇〇〇軸馬力
速力(計画)=二六・七ノット
〃 (公試)=二七・五ノット
燃料搭載量=重油八、二〇〇トン
航続力=一四ノットにて八、〇〇〇カイリ
兵装=五〇口径三年式二〇センチ連装砲二基、同単装六基
四五口径一〇年式一二センチ連装高角砲六基
留(ルイス)式七・七ミリ機銃二梃
搭載機=六〇機
短艇=一六隻
乗員数=一、二六九名
加賀は赤城にくらべて戦艦と巡洋戦艦の差として、排水量では大差なかったが、全長では二二・七メートル短く、艦幅(最大幅)ではわずかに五六センチ大きい。排水量は公試状態排水量では六七一トンの差があるが、基準排水量では大差ないものとされていた。本来、赤城と加賀はワシントン条約の特別条項に基づいて建造されたもので、排水量(基準)のリミットは三三、〇〇〇トンであったから、特に単艦の排水量でこの制限をオーバーする気遣いはなかったが、合計排水量の制限があった関係からか、単艦排水量は両艦とも二六、九〇〇トンと公表されていた。また速力についても赤城が二八・五ノット、加賀は二三ノットと四〜五ネット低く公表されており、このあたりより海軍省の公表する軍艦、艦艇の公表要目は作為的なものとなっていった。ちなみに米国のレキシントン、サラトガは条約のリミット一杯の三三、〇〇〇トンであったとも言われており、このへんは、なかなか一筋縄では行かないところである。さて、加賀ではこのように赤城と寸法的にかなり差があった関係で、最上段の着艦甲板は一九メートル短く、ただし後端部は赤城のように幅を狭めておらず、最大幅のままで、船体の艦尾端とほぼ同じ位置まで張り出されている。また赤城ではこの飛行甲板は艦尾から中央部に向け約一・五度の軽い傾斜がつけられており、中央部から前方は逆に〇・五度の軽い傾斜がつけられ、すなわち軽く弓形に沿った形をしていたのに対し、加賀の場合は完全にフラットな形状になっている。これは艦首砲熕からの逆着艦を考慮したためともいわれている。この最上段の飛行甲板は加賀の場合、煙突が左右に分かれて誘導されているためバランスは等しく、従って飛行甲板のセンターラインと船体の中心線は等しい。エレベーターの配置と数に変わりはないが、エレベーターのサイズは前部が一〇・六七×一五・八五メートル、後部が一二・八×一五メートルと大型になっており、これは機体の大型化に対処したものであった。同じく中段および下段の飛行甲板も加賀の方が幅は広く、とくに下段飛行甲板の前端部は赤城では丸味を帯びていたが、加賀では切り落とした形状となっている。艦橋位置や形状については赤城の場合と変わりなく、ただ前檣は細い鉄骨状のものに変わっている。加賀の機関出力は赤城より低い九一、〇〇〇馬力であったが、缶はすべて重油専焼缶とされ大型八基、小型四基の一二基を搭載していた。この排煙方式として加賀では煙路を両舷にわけて、船体中央の飛行甲鈑の下より艦尾沿いに飛行甲板両側を艦尾に導き、艦尾で両側とも舷外に斜め後方下向けに曲げて排煙する方式を採用していた。この方式は先に英空母アーガスやフューリアスなどが、ほぼ類似の方式を採用しており、赤城の舷側湾曲煙突と長短を比較する意味から採用されたものらしく、船体に対する重量バランスの点では問題なかったが、まず重量的には艦尾まで長い距離の誘導煙突を設けたために不利で、赤城より約一〇〇トンあまり煙突関係の重量を要したといわれている。しかし、それ以上に問題となったのは、艦尾の気流の乱れが予想外に大きく、かつこの煙路沿いの居住区が、高温のため使用に耐えられないことであった。兵装、防御なども特に赤城と変わるところは少なく、二〇センチ砲および一二センチ高角砲の配置もほぼ同じである。加賀の場合、煙突が艦尾のため高角砲に対する被害はなく、従って煤煙除けシールドもない。舷側水線部の主甲帯も戦艦時の一一インチ甲鈑を再圧延して、五インチに薄くして装備したもので、これも赤城と同じであった。搭載機数および機種も赤城と同じである。格納庫も上・中・下三段で、上部格納庫の前面に艦橋があり、右舷に起倒式の前檣と後檣がある。この前檣のやや後方に主砲指揮所と高角砲指揮所が両舷にある。飛行甲板上の制動装置は赤城と同じく縦索式のもので、ただ装備範囲は赤城の九六・三(長さ)×七・四(幅)メートルに対して、九〇・五(長さ)×二七・四(幅)メートルとなっている。また後部エレベーター両側の飛行甲板上、高角砲指揮所後方の張り出し部に一一〇センチ探照灯が、いずれも隠顕式に装備されている。加賀は昭和三年三月三十一日に形式上は引き渡しを終えたことになっていたが、事実上はただちに第4予備艦となり、工事を続行した。加賀は同年十二月四日の特別観艦式に参加するため九月より運転公試に入り、排水量三三、七〇〇トンで速力約二七・五ノットを得ている。特別観艦式での加賀は、外観的にはほとんど完成状態に見えたが、肝心の航空艤装が未完了で、また二〇センチ連装砲も未搭載であった。昭和四年に入って加賀は工事を続け、同年十二月六日、搭載機の発着艦試験を兼ねて、横須賀航空隊に預けてあった艦攻、戦闘機など二八機を収容、ここに空母としての装備を終えて事実上の完成となった。加賀は十二月八日に横須賀を出港して母港の佐世保へ向かった。これ以前に加賀は十一月三十日付けで第1航空戦隊に編入されており、赤城に代わって旗艦となった。昭和五年三月、加賀は初めて艦隊と行動をともにした。しかし同年末に予備艦となり、佐世保工廠で工事を実施。このときに飛行甲板の制動装置をフランスより購入したフュー式制動装置(横索式)に換装したものらしかった。また一三ミリ連装機銃四基の装備もこの時の工事と思われ、主砲指揮所の後方、飛行甲板後部の両側にそれぞれ装備された。昭和七年一月、加賀は上海事変のため出動、同年三月に帰投した。昭和八年、加賀は右舷主砲指揮所の前方に小型の艦橋を仮設している。しかし、この直後の十月に第2予備艦となり、佐世保工廠で大改装工事に着手するところとなり、加賀の現役就役は四年間で、早くも大改装に着手するところとなったのであった。
新造時の赤城
赤城は大正九年十二月六日、呉工廠で起工された。本艦はそもそも八八艦隊の最初の巡洋戦艦天城の二番艦で、後にワシントン条約により廃棄が決定されたとき、赤城は船体の最下甲板の防御甲板までが、ほぼ出来上がっていた状態であった。ワシントン条約においては、特例として、廃棄する主力艦を二隻まで空母に改造することを認めており、ただし排水量は三三、〇〇〇トン以内、備砲八インチ一〇門までとされていた。この特例に基づいて、日、米はそれぞれ二隻ずつの巡洋戦艦を空母に改造することになり、選ばれたのが赤城、天城、米国ではレキシントンとサラトガであった。赤城は大正十二年十一月九日、航空母艦と正式に定められて工事を再開、大正十四年四月二十二日に進水、昭和二年三月二十五日に完成した。赤城の新造時の要目は次のとおりである。
基準排水量(計画)=二六、九〇〇トン
〃 (実際)=二九、五〇〇トン
公試状態排水量=三四、三六四トン
全長=二六一・二メートル
水線長(公試状態)=二四八・九五メートル
垂線間長=二三四・七〇メートル
最大幅=三一・一〇メートル
水線幅(公試)=二八・九六メートル
平均吃水(公試)=八・〇八メートル
深さ(飛行甲板)=二九・〇メートル
〃 (最上甲板)=一六・九六メートル
飛行甲板長(上段)=一九〇・二メートル
〃 幅( 〃 )=三〇・四八メートル
〃 長(下段)=五五メートル
〃 幅( 〃 )=二二・八六メートル
主機=艦本式オールギアード・タービン四組
軸数=四
缶=ロ号艦本式専焼缶一一基、同混焼缶八基
出力(計画)=一三二、〇〇〇軸馬力
〃 (公試)=一三七、〇〇〇軸馬力
速力(計画)=三二・五ノット
〃 (公試)=三二・六ノット
燃料搭載量=重油三、九〇〇トン、石炭二、一〇〇トン
航続力=一四ノットにて八、〇〇〇カイリ
兵装=五〇口径三年式二〇センチ連装砲二基、同単装六基
四五口径一〇年式一二センチ連装高角砲六基
留(ルイス)式七・七ミリ機銃二梃
搭載機=六〇機
短艇=一六隻
乗員数=一、二九七名
本艦の基本計画を行なったのは藤本喜久雄造船大佐で、当時ほかに例のない大型艦の空母への改装であり、まだ鳳翔も完成前であったので、その設計は容易でなかったといわれている。基本的な艦型は当時、英国が計画していた全通甲板艦と異なり、英国が同じく改装中であったフューリアスなどと同じ多段式飛行甲板方式を採用、しかも他に例のない三段式というユニークな形態を採用していた。この方式では最上部の飛行甲板は着艦専門とし、その下の中部飛行甲板を小型機(艦戦)発艦用、下部飛行甲板を大型機(艦攻)発艦用にそれぞれ機能を分離し、効率よく飛行作業を行なおうという目的から発したもので、一見、これが想定したとおりに働けば理想的な空母となるはずであったが、後の歴史が示すように空母における多段式甲板は、結果的には失敗であった。これは第一にまず、このような短い飛行甲板で発艦を行なうのが困難であったことで、特に機体の刷新とともに機の重量が増大するにつれて、ますます長い発艦距離を要するようになり、有力な射出機でも備えない限り、発着艦甲板の分離方式は無理となり、廃止される方向にむかった。赤城ではこの三段式飛行甲板を採用、最上部の長さ一九〇メートル、幅三〇・五メートルの飛行甲板を着艦専門甲板と予定しており、この甲板は強度甲板ではなく二ヵ所に伸縮ジョイントを設けていた。エレベーターは前後に合計二基があり、前部は一一・八メートル(幅)×一三メートル(長さ)、後部は八・四メートル×一二・八メートルと前部の方が大型で、艦攻などの大型機用、後部が小型機用とされていた。前部エレベーターの前後には遮風柵があり、また前部エレベーターの後方から艦尾にかけて約一〇〇メートルほどの部分に、鳳翔と同方式の縦索制動装置が設けられていた。エレベーターは電動で、とくに後部のエレベーターは二段式として降下中も飛行甲板を塞ぐことが出来る構造となっていた。遮風柵は油圧を動力として、起倒式で鋼板に孔をあけた構造となっていた。格納庫も三段あり、上段の格納庫は戦時格納庫と称して当初、周囲を密閉せずに開放式としており、その甲板は中段の飛行甲板と結んでいた。その下の格納庫は下段飛行甲板と連結したもので、更にその下方に短い格納庫があった。飛行甲板などの航空艤装とともに苦心したのは煙突の形態で、これについては鳳翔の方式も気流を乱すとして改正を求められており、このため霞ヶ浦の技術研究所で模型による風洞実験を繰り返したが、あまり良好な答えが出ず、赤城では右舷中央やや前方寄りに、大型の煙突を舷側より突き出し、それを一二〇度折り曲げて斜め下方に向ける湾曲煙突が採用され、さらにその後方に逆に上方に向けた小型煙突(混焼缶用)の二本煙突方式となった。とくに下方に向けられた大型煙突は、艦が傾斜時にその開口部が海水で塞がれるのを防ぐため、上背面に盲蓋を多数設けてあり、そのような事態となったときはこの盲蓋を取りのぞいて、排煙できるよう配慮されていた。また排煙時に海水のシャワーを噴霧して、排煙の温度を下げる配慮もされていた。この大型煙突の装備により左右の重量バランスを保つため、最上段の飛行甲板は中心線をいくぶん左舷にずらしてあった。兵装のうち、二〇センチ砲は連装砲が中部飛行甲板両側、単装砲が艦尾のケースメイトに装備され、数は条約限度一杯であったが、有事には他に六門をケースメイトの前方に追加装備できるスペースを確保していた。とうじ大型空母としては重巡との交戦を考慮する必要があり、防御的にも重巡の二〇センチ砲に対抗できるよう、巡洋戦艦時の一〇インチ舷側甲帯を五インチ(一二七ミリ)に再圧延して装備していた。二〇センチ砲は正八インチ砲ではなく正確には二〇〇ミリ砲で、単装砲は古鷹型とほぼ同じA1型、連装砲は口径以外は高雄型と同じ七〇度の大仰角を持つ、対空射撃兼用のB型であった。高角砲は四五口径三年式一二センチ連装砲で、中央部舷側のスポンソン上に各舷三基ずつが装備され、煙突の関係で左右対称とはなっていない。特に右舷側の各砲には煤煙除けのシールドが装着されている。艦橋については当初、上部の戦時格納庫前端右舷寄りに設け、左舷側に簡単な見張所を置く程度のことを考えていたが、艤装中に艤装委員長(艦長)より、このような構造では大艦の艦橋として位置が低すぎ、上空も見えず、かつ左右に分かれていてはとても操艦できないと強硬な意見が出され、ついに格納庫前面に両舷にわたる広大な艦橋を設け、上部にはマンホールを設けて飛行甲板との連絡用として、さらに両側に張り出し部を設けて上空見張所とするなどの大改正を実施、けっきょく新造時より中段飛行甲板は艦橋の新設で発艦不能の状態にあった。本艦の建造にあたっては、初めての大型空母として建造費見積もりなども正確を期すことができず、船体の完成と一般艤装の段階で予算がなく、追加予算の成立もおぼつかないため、とりあえず他艦艇の新造費や一般修理予算を流用して工事を進めるほかなく、形式的に竣工(引き渡し)した昭和二年三月二十五日現在、まだ多くの残工事を残していた。航空艤装が整い各種の公試が始められたのは五月に入ってからで、最後の発着艦試験は七月三十一日に伊予灘で実施され、実質的にはこの日をもって完成ということになった。搭載機は新造時、三式艦戦一六機、一〇式艦偵一六機、一三式艦攻二八機の合計六〇機が予定されていたが、これは戦時の数字で、平時には艦戦、艦偵、艦攻各一二機、同予備各四機の合計四八機を定数としていたという。赤城は同年八月一日に連合艦隊付きとなって大演習に参加、翌三年四月、鳳翔とともに最初の艦隊航空戦隊である第1航空戦隊を編成した。昭和三年末から翌年初めにかけて呉工廠でふたたび残工事を行ない、上部戦時格納庫の密閉化、二〇センチ連装砲の搭載などを行なって、ふたたび艦隊に復帰した。昭和六年末、予備艦となったときに横須賀工廠で無線工事や通風工事などの小工事を実施しており、このときに後部飛行甲板両側に一三ミリ連装機銃四基(各舷二基)の装備を実施したものらしい。さらに昭和八年九月から翌年一月のあいだに、上部飛行甲板右舷前方に小型の艦橋を設けたが、これは先に加賀が装備していたものといわれている。なお制動装置は昭和六年ごろに萱場式に換装したといわれているが、その後まもなく呉式一型に再換装したものと思われる。赤城はこのまま昭和十年末に佐世保工廠で大改装に着手することになるのである。
赤城、加賀の20センチ砲
赤城、加賀が航空母艦に改装を決定した大正十一年当時は、ジュットランド海戦が行われてから間もないころであり、航空機は未発達で、主力艦の主砲が洋上決戦のカギを握るものと信じられていた。このため艦載機を搭載して航空攻撃能力を有する航空母艦であっても、対水上艦隊攻撃用に有力な砲熕兵装を装備するのが普通であり、日本海軍最初の空母鳳翔も軽巡の主砲なみの一四センチ砲を装備しており、赤城、加賀の空母改装にあたっても、そうとうの砲熕兵装を装備することが計画された。大正十九年十一月に締結されたワシントン軍縮条約における空母の備砲制限は、口径八インチ(二〇・三センチ)以下で、六インチ(一五・二センチ)以上の砲を有するときは、五インチ(一二・七センチ)以上の砲の合計は一〇門以内とする。ただし二七、〇〇〇トン以上の艦は八門以内とする、というものであった。赤城、加賀の基準排水量は二六、九〇〇トンであったから、条約の制限によれば二〇センチ砲一〇門までを搭載可能であり、当然のことながら計画に当たっては、条約制限ぎりぎり一杯の二〇センチ砲を一〇門搭載し、敵の二〇センチ砲搭載の巡洋艦と遭遇しても、充分に対処可能な装備とすることが決定した。二〇センチ砲の装備方法については、二〇センチ連装砲と砲郭式の混載案、全門砲塔式とする案などが検討されたが、航空母艦への改装計画で三段式飛行甲板で艦橋を持たない平甲板とすることが決定したため、最終的には二〇センチ連装砲塔を、三段式飛行甲板の二段目の羅針艦橋部直前の両舷に各一基装備し、艦後部の中甲板に二〇センチ単装砲を砲郭式に、片舷三門ずつ合計一〇門装備するなどで落ち着いた。この装備方法により片舷五門の砲力を有することになり、さらに二〇センチ連装砲二基により艦首線上の砲力も四門を得ることができた。このほか高角砲として一二センチ連装高角砲を、片舷二基ずつ合計一二門を飛行甲板下のスポンソン上に装備したが、当初計画では一二センチ単装砲を、艦後部の中甲板に装備した二〇センチ砲に並べて砲郭式に二門装備し、有事のさいはこれを二〇センチ砲に換装する案も検討されたといわれており、赤城、加賀の写真を見てもわかるとおり、二〇センチ単装砲二門の艦首寄りに充分な装備スペースを有していた。この当時、空母に二〇センチ砲を搭載していたのは日本海軍だけでなく、ワシントン軍縮条約に基づき巡洋戦艦サラトガ、レキシントンを空母に改装していた米海軍でも、空母改装にあたって巨大な艦橋構造物と煙突との前後に二〇センチ連装砲二基ずつ背負式に装備していたが、装備方法については米海軍の方が一歩優っていた。さて、赤城、加賀に装備された二〇センチ砲は、五〇口径三年式二〇センチ1号砲と呼称されており、口径は正二〇センチ(七・九インチ)砲で、重巡古鷹型、青葉型に搭載されたものと同型式の砲である。赤城、加賀に装備された二〇センチ連装砲は、古鷹型に搭載された単装砲を新式のB型連装砲架に搭載したもので、主要諸元は次のとおりである。
口径=二〇センチ
膅長=五〇口径
初速=八七〇メートル/秒
最大俯仰角=マイナス五度〜プラス七〇度
最大射程=二八、九〇〇メートル
発射速度=三発/分
旋回速度=四度/秒
俯仰速度=六度/秒
本砲の砲塔構造は明らかでないが、赤城、加賀の改装計画が進んでいた大正末期には、二〇センチ連装砲を搭載した重巡青葉型の建造も行なわれており、青葉型は完全砲塔型式の二〇センチ連装砲塔を採用していた。赤城、加賀においても、完全砲塔型式の二〇センチ連装砲塔が搭載されたものと考えられ、輥輪盤直径は青葉型と同じ五、三〇〇ミリであった。本砲は中段飛行甲板の高い位置に装備されていたため、弾火薬庫は中甲板レベルにあり、弾火薬庫防御構造には特別の配慮がなされていたと思われるが、詳細は不明である。本砲の特長は最大仰角七〇度という点で、これにより対空射撃も可能であった。砲室は青葉型、妙高型に搭載された前楯部に丸みを持った型式と異なり、むしろ高雄型の砲室に類似した角型構造で、砲室防御は二五ミリNVNC鋼であった。二〇センチ単装砲は五〇口径三年式1号砲を、円錐台型式のA1型砲架に搭載し、砲廓内に装備したもので、日本海軍で二〇センチ砲をケースメイト装備したのは赤城、加賀のみであった。本砲の最大仰角は二五度で、その他の主要諸元は連装砲と同一である。赤城、加賀は近代化改装工事のさい、前部の二〇センチ連装砲二基を撤去したが、加賀は後部の二〇センチ単装砲を二門増設し、片舷五門合計一〇門装備とした。だが赤城は増設されず、片舷三門の合計六門とされた。
赤城/加賀の建造までの経緯と八八艦隊の空母
大正九年の第四三議会で、日本海軍が長年熱望していた八八艦隊完成計画が成立したが、この中に二隻の航空母艦の建造が含まれていた。これは、八六艦隊完成計画で建造が決まった鳳翔につづく、二隻目と三隻目の航空母艦である。すなわち、日本海軍は八八艦隊計画では、鳳翔を含めて三隻の空母を艦隊に配備する計画だったのである。この二隻の空母は同型で、一番艦は翔鶴と命名される予定だったが、二番艦の方は艦名はまだ具体化していなかった。翔鶴型は、常備排水量一二、五〇〇トンという以外にその内容は知られていないが、搭載機数は二四機、一二センチ高角砲装備の計画だったと推測しているむきもある。八八艦隊完成計画によれば、翔鶴は大正十〜十二年度で、また二番艦は大正十三〜十五年度でそれぞれ建造の予定とされ、船体の建造所には、いずれも鳳翔の船殻工事を担当した浅野造船所が予定されていたといわれている。八八艦隊完成計画の成立に先立つ大正七年六月に国防方針の第一次改訂が行なわれ、国防に要する海軍兵力は従来の八八艦隊に主力艦八隻を基幹とする艦隊一個を増加した。八八八艦隊を基幹とした兵力に改められた。この八八八艦隊に配備すべき航空母艦は四隻の計画とされており、八八艦隊完成計画までの三隻にくわえて新たに翔鶴型一隻の建造が計画されていたと伝えられている。この艦は大正十六年度(昭和二年度)末までに完成させる構想で、船体の建造所はそれまでの艦と同様に浅野造船所の予定だったといわれている。八八艦隊完成計画による翔鶴型は、いずれも起工に至らぬうちにワシントン海軍軍縮条約が成立したために建造中止となり、この型はついに幻の空母として終わってしまった。大正十一年二月に締結された海軍軍縮条約は、主力艦の各国保有量と新造艦のトン数および主砲口径の上限を定めたほかに、誕生まもない航空母艦についても、次のような規定が設けられた。
(1)航空母艦とは、もっぱら航空機を搭載する目的で設計され、航空機が発着し得る構造を持つ、基準排水量一〇、〇〇〇トンを超える軍艦をいう。
(2)各国の保有し得る総トン数(基準)を、日本八一、〇〇〇トン(比率三)、米国一三五、〇〇〇トン(同五)、英国一三五、〇〇〇トン(同五)、フランス六〇、〇〇〇トン(同一・七五)、イタリア六〇、〇〇〇トン(同一・七五)とする。
(3)単艦の基準排水量は、一〇、〇〇〇トン以上二七、〇〇〇トン以下とする。ただし、合計トン数の範囲内で三二、〇〇〇トン以内の艦を二隻まで建造できる(一〇、〇〇〇トン以下の艦は対象外。したがって鳳翔は、保有総トン数の枠外となる)。
(4)備砲の口径は、八インチ(二〇・三センチ)以下。ただし六インチ(一五・二センチ)以下の砲を装備したときは、五インチ(一二・七センチ)以上の砲との合計を一〇門以内とする(二七、〇〇〇トン以上の艦では八門)。
(5)現存間は、三、〇〇〇トンの増加範囲内で水平および空中防御力を強化できる。
(6)艦齢は二十年とし、これを過ぎたら代艦が建造できる。
このような条約が締結されたため、八八艦隊完成計画に基づいて実施せんとしていた日本海軍の空母建造計画は、大幅に変更することを余儀なくされてしまった。すなわち、八八艦隊完成計画により建造が決まっていた翔鶴型二隻は、当時いずれも未起工の状態にあったので、ワシントン条約で建造が中止となった八八艦隊の主力艦群のうち、比較的工事の進んでいる二隻の船体を活用して大型空母に設計変更のうえ完成させ、翔鶴型は大正十二年十一月に建造中止とされたのである。これにより空母の建造数は、八八艦隊と同じの二隻だったが、その船型ははるかに大型となり、翔鶴型の二倍以上の巨艦となったのであった。このように途中から空母として建造されたのが、赤城と加賀である。しかし最初からこの二隻の組み合わせで空母化が考えられたのではない。まずこの二艦を空母として改造する方針がきまるまでの経緯を簡単に触れてみよう。八八艦隊の主力艦建造計画は、大正四年に戦艦長門の建造が成立したときに始まる。ついで大正五年に八四艦隊完成計画が認められ、これにより戦艦三隻(陸奥、加賀、土佐)、巡洋戦艦二隻(天城、赤城)の建造が決まった。加賀と土佐の二隻は新造艦で、長門型より重防御、強兵装の高速戦艦である。また天城と赤城は、加賀型と同一兵装を持ち、長門型に匹敵する防御力と、三〇ノットの高速力を備えた巡洋戦艦であった。さらに大正六年には八六艦隊完成計画が成立し、天城型巡洋戦艦二隻(愛宕、高雄)の建造が認められた。次いで第一次世界大戦終了直後の大正八年に、八八艦隊完成計画を成立させ、大正九〜十六年度の期間に戦艦四隻(紀伊、尾張、第一一号、第一二号戦艦)および巡洋戦艦(第八〜一一号巡洋戦艦)を建造することになった。ここに述べた紀伊型および第八号型巡洋戦艦の内容については、本稿の主題に直接関係ないので省略する。冒頭に記した翔鶴型二隻もこの時の計画に含まれていたものである。さて、ワシントン条約によりこれら一六隻の主力艦は、すでに完成していた長門と陸奥の二艦をのぞき、すべて建造中止となってしまった。ちなみに条約が調印された大正十一年二月の時点で、これら諸艦の状況は次のとおりであった。
戦艦加賀、土佐
大正九年七月および二月に起工され、軍縮会議中の大正十年十一月と十二月に進水した。
巡洋戦艦天城、赤城
両艦とも大正九年十二月に起工され、船台上あるいは船渠内で船殻工事中だった。
巡洋戦艦愛宕、高雄
軍縮会議開催直後の大正十年十一月および十二月に起工。
戦艦紀伊、尾張
軍縮会議直前の大正十年一月に製造訓令が出されたが、未起工だった。
戦艦第一一号、第一二号
製造手続き未済。
巡洋戦艦八号〜一一号
製造手続き未済。
このような状況から、空母に設計変更して完成させるのに適した工事状態の艦は、天城、赤城、加賀、土佐の四隻だけだったことがわかる。ワシントン条約で、空母の単艦排水量の上限を二七、〇〇〇トンと定めた理由は良くわからない。一説には各国が、それぞれ廃棄あるいは建造中止となる自国の主力艦、超大型巡洋艦を空母化する場合の予想トン数を上限とするよう主張し、その妥協点が二七、〇〇〇トンだったともいわれているが、真疑は定かでない。だが、このトン数は、日本海軍にとって都合の悪いものではなかった。設計上、困難な問題はあるが、これにより建造中止となった八八艦隊計画の主力艦を空母化できることになったからである。日本海軍は、すでに大正七年に空母の速力には三〇ノットが必要との考えを打ち出しており(鳳翔の建造経緯参照)、これに適合する速力を有し、かつ船体長が大きな巡洋戦艦天城型(三〇ノット)の方が、建造工程が先行し、進水済みの戦艦加賀型(二六・五ノット)より空母化に適していることは明らかだった。そこで天城、赤城の二艦が、巡洋戦艦としての建造を取り止め、空母に変更して完成させることが決定された。これに伴い残りの建造中の艦(四隻)は、大正十一年二月に工事中止の指示が出され、翌十三年に加賀をのぞく三艦は建造取り止めの発令が発せられ、廃棄処分に付された。また未起工の八隻は、大正十二〜十三年に建造取り止めの命令が出された。ところが、大正十二年九月一日の関東大震災により、横須賀工廠の船台上で空母改造工事着手直前の状況にあった天城は、船体に大きな歪みを生じて建造困難となり、空母改造を断念して解体することを余儀なくされた。この災害の結果、空母改造に当てる主力艦一隻の充当が必要となり、進水後、来るべき廃棄処分を待っていた戦艦加賀を、代わりに空母として完成させることに決した。かくして赤城、加賀の二艦が空母として建造されることになり、大正十二年度の艦艇建造新計画により、従来の建造費の予算改訂を行ない、赤城は大正十五年度、加賀は大正十六年度(昭和二年度)完成の予定で、建造計画が定められた。両艦の空母改造にさいして、軍令部から出された要求事項については、現在のところ明らかになっていない。しかし、飛行機が発着艦し易いことが重要項目として要求されていたようで、これに対応して外国でも例を見ない三層飛行甲板方式を採用し、さらに飛行甲板上には艦橋構造物を設けずクリアとした平甲板型とした。ちなみに三層の飛行甲板は、上から発着甲板、戦闘機の緊急発進甲板および発艦甲板とされていた。このような方式は、次の利点があると考えられていた。(1)発艦甲板上に飛行機が発進準備態勢で駐機していても、着艦機の妨げにならぬ。(2)大型機は格納庫内で折りたたみ翼を展張して発進でき、外国艦のように露天風圧下に翼の展張、取り付け困難な作業の必要がない。(3)二〇センチ連装砲塔二基を適切な位置に装備できる。(4)必要な場合は、最上部の帰着甲板の前部を発艦甲板として使える。もう一つ重要な問題は、着艦に悪影響をあたえる気流が生じないような、煙突の導設法である。前記のように赤城と加賀は、その出生が異なるため、空母としての設計は別個に行なわざるを得なかった。そこで比較実験のために、それぞれまったく異なった方式の煙突が設置されることになった。もし天城が破損せずに空母化されていたら、赤城と同一の設計で建造されていただろう。赤城は、右舷側外側に向けて湾曲煙突を設け、熱煙冷却装置を装備したのに対して、加賀は英空母アーガスに倣って飛行甲板両舷直下に煙路を艦尾まで設け、斜め外側に開口させる方式を採用した。重巡との交戦を考えて、ワシントン条約の許容限度一杯の備砲を装備することも、軍令部の要求だったと思われる。これを満たすため、戦闘機緊急発進甲板に二〇センチ連装砲二基を配備するとともに、船体後部両舷のケースメイトに二〇センチ単装砲を三基ずつ装備する、きわめて特異な方式を採用した。このような基本構想に従って設計が取りまとめられた赤城、加賀の概要については、別稿の解説を参照されたい。同時期に竣工した、米国のレキシントン級や英国のハーミズと比べて、空母としての構造や艤装が中途半端な面を多々残しており、後に近代化改装を実施する破目になったが、これは当時の日本海軍が空母に対する用兵上の要求を明確に定めるに至っていなかったことを物語っている。
空母『赤城・加賀』の航空艤装と砲熕兵装
◇航 空 艤 装◇
(1)飛行甲板=赤城、加賀両艦の新造時の最大の特長は、3段式の飛行甲板であった。計画では一番低い飛行甲板を主たる発艦甲板とし、最上段のそれを着艦甲板として、中段と最上段の前部は必要に応じて発艦甲板として使用するというもので、下段からは攻撃機3機が同時に発艦できるようになっていた。下段の飛行甲板は上甲板の前部にあたり、長さが55.2メートル、幅が22.9メートル(加賀は24.4メートル)と今日的な目から見れば、はなはだ短いものであるが、当時は航空機自体もやっと実用化に入ったばかりで、機体重量も小さかったのでこの程度で十分だったのであろう。中段の飛行甲板は、艦橋と20センチ連装砲塔の前方にあたり、長さは15メートル程度のものだったため、実際問題としては小型の戦闘機といえども発艦することが困難だった。上段の飛行甲板は長さが190.2メートル(加賀は171.2メートル)、幅が30.5メートルで、赤城の場合は発艦機に対する気流上の配慮から、側面が吃水線に対してゆるいカーブを描いていた。具体的には飛行甲板の全長に対して、艦首から約五分の二の長さが艦首方向に対して1.5度ほど下がっている。「海軍造船技術概要」第二分冊に掲載されている本艦の帰着甲板側面図を見ると艦尾よりの約五分の一は段がついていて、前部約五分の四よりも33センチ高くなっているように描かれているが、写真で見るかぎり、段はついてないようである。一方、加賀にはこのようなカーブはなかった。このような3段式飛行甲板は、外国でも例はなかったが、ハッシュ・ハッシュ・クルーザーを改造したイギリスのフェーリアス、カレイジアスおよびグローリアスの三艦は、2段式飛行甲板を備えていた。ことにフェーリアスは1925年(大正14年)に本格的な空母として就役しているので、赤城、加賀の両艦を空母に改造する際、これを参考にしたことを想像するに難くない。それではこのような多段式ともいえる飛行甲板形式は、どのような理由から生まれたのであろうか。それは発艦と着艦をそれぞれ別々な飛行甲板で行なうことによって、同時に発着艦を行なえるという運用上の大きなメリットがあったからである。単一の飛行甲板しか持たない空母は、相当大型な艦でも発着艦を行なうことは不可能であった。ちなみに、単一飛行甲板で同時に発着艦できるようになったのは第二次大戦後で、アングルド・デッキがこれを可能にした。多段式飛行甲板のもう一つのメリットとしては、エレベーターを使用せず、直後、格納庫から発艦できるという点である。しかし艦上機の発達は、多段式飛行甲板のメリットをデメリットに変えてしまった。すなわち艦上機の発着艦速度がだんだん大きくなってきたのである。そこで日本海軍はまず戦艦を改造した低速の加賀を、昭和9年から10年にかけて近代化改装し、3段あった飛行甲板を1段に改めて島型艦橋を設けたほか、機関、兵装関係を一新させた。これによって加賀の飛行甲板は全長248.6メートル、幅30.5メートルのものに一新した。赤城も加賀のあとを追って昭和10年から13年にかけて近代化改装され、加賀と同様に全通の1段飛行甲板の島型空母に生まれ変わり、飛行甲板は全長249.2メートル、幅30.5メートルとなったが側面のカーブは依然としてつけられていた。
(2)着艦装置=赤城が新造時に装備した着艦拘束装置は、当時イギリス海軍が採用していたワイヤーを縦に張ったもので、最上部飛行甲板中後部の長さ約100メートルの部分に設けられた。この装置は、鳳翔にも採用されていたが、機構的に複雑なうえ、滑走速度の減殺にあまり効果がなく、しかも着艦のやり直しを著しく困難にしたため、パイロットに危険性すら感じさせるという代物だった。これのメカニズムについては、いずれこのシリーズで鳳翔を取り上げた際、そこで述べるつもりである。一方、加賀はフランス空母ベアルンに採用されていた横索式の着艦拘束装置を昭和5年に導入した。この装置はフランスのシュナイダー社の製品でフュー式といい、その機構は次のようなものであった。直径約7センチのアルミ合金製ドラムの内側に、これの力によって横張りの着艦ワイヤーの制動力を調節するというもので、ひとつのドラムの両端から出た2本のワイヤーで、ひとつの着艦ワイヤーを制御する仕組みである。このような横索式の着艦拘束装置は、当時アメリカ海軍でも相当進んでおり、よく赤城、加賀の両艦と対比されるサラトガ、レキシントンの2隻は、20秒間隔で搭載機を着艦させることができたといわれる。赤城の横索指揮着艦拘束装置は、前述のような状態であったため、萱場資郎氏が横索式のものを開発すると同時にそれを採用し、昭和6年に装備された。この装置は、制動力に油圧を使用した点に特色があり、両舷に一対の制動機を装備し、これから1本の横索を展張するというもので、性能的にはまだまだ低いものであったが、国産したという点で、大きな意義があった。赤城、加賀の両艦が最後に装備していた着艦拘束装置は、昭和8年に開発された呉式1型の改良型である呉式4型で、これを12基(横索12本)有した。呉式というのは呉海軍工廠電気実験部が中心になって開発したもので、電気磁石を利用した着艦拘束装置であった。ちなみに呉式4型が実用化されたのは昭和13年で、15年まで製作された。
(3)滑走制止装置=呉式着艦拘束装置の実用化によって空母の着艦能力は向上したが、20秒間隔の着艦にはまだ遠く、そのために日本海軍は飛行甲板の3分割使用法を考案した。すなわち飛行甲板を発艦、着艦および収容の3区域にわけ、着艦時は前部エレベーターを境に、その後部を着艦区域、その前部を収容区域とし、着艦機は前部エレベーターで格納庫へ入れるか、または前部飛行甲板にパーキングさせ、次々と着艦作業を行なうというものである。そのためエレベーター後方に不良着艦機の追突を避け、また降下エレベーターのホールに転落するのを防ぐための装置が、滑走制止装置である。加賀は近代化改装後のおり、日本空母としてこの装置を最初に装備した。この装置は航空技術廠で開発されたため、空技廠式滑走制止装置1型と呼ばれ、その機構は2本の支柱間に3本の制止索を展張したもので、中央索は両舷の油圧制動装置に接続しており、支柱は圧搾空気によって素早く起倒するようになっていた。加賀はその後、滑走制止装置を空技廠式3型に改めているが、赤城の方は加賀よりも遅く近代化改装されたため、最初から空技廠式3型を装備したものと思われる。
◇砲 熕 兵 装◇
(1)20センチ砲=赤城、加賀の両艦は敵巡洋艦に遭遇しても砲戦ができるように、20センチ連装砲塔2基を中段の飛行甲板上に並列に装備したほか、艦尾よりの中甲板には20センチ単装砲を片舷3門ずつケースメート式に配置していた。空母に20センチ砲を装備した例としては、他にアメリカのレキシントン、サラトガの2隻があるが、米空母はアイランドの前後に連装砲塔を2基ずつ背負式に配置していたため、砲数は8門であったが、全砲片舷に指向できるのに対し、赤城、加賀の片舷砲力は5門にすぎなかった。ワシントン条約における空母の備砲制限は、次のようなものであった。口径は8インチ(20.3センチ)以下で、6インチ(15.2センチ)以上の砲を有するときは5インチ(12.7センチ)以上の砲の合計は10門以内(ただし27,000トン以上の艦は8門以内)。すなわち赤城、加賀の両艦は基準排水量が26,900トンだったので、条約制限ぎりぎりの砲熕兵装を有したわけである。しかし赤城は当初、中甲板に前述の砲数の20センチ砲のほか、12センチ単装砲を片舷3基ずつケースメート式に配置する計画をもち、しかも戦時にはこれを20センチ単装砲に換装するつもりでいた。実際問題としては12センチ砲は装備されなかったが、将来の20センチ方搭載を考慮していたことは、写真などでケースメート付近を見ていただければわかるであろう。加賀の場合も同様で、後の近代化改装のおり、この場所に20センチ単装砲を片舷2基ずつ装備したことは、周知の通りである。赤城、加賀の両艦が装備した20センチ砲は、型式名を五〇口径三年式1号20センチ砲といい、新造時の古鷹型や青葉型巡洋艦の主砲と同型である。この砲の性能諸元などについては、別の機会に譲るが、ケースメート式20センチ砲架は、他に例がないので少し述べてみよう。砲架の型式は円錐台砲架といい、通常15センチ以下の砲に用いられるもので、発砲時には相当大きな力が砲架にかかるため、20センチ砲がその限度といわれている。日本の戦艦用14センチ副砲砲架はその代表的例である。なお、近代化改装後の20センチ砲の搭載数は、赤城が単装6基、加賀が単装10基となった。
(2)12センチ高角砲=赤城、加賀の両艦が搭載した高角砲は当時最新式のもので、型式名を四五口径一〇年式12センチG型砲架を原型として開発された。砲架の型式はA2型と呼称され、砲の操縦は油圧式になっていた。この砲の性能諸元も別の機会に譲ることにするが、これを最後まで搭載していたのは赤城だけで、加賀の方は近代化改装のおりに四〇口径八九式12.7センチ連装高角砲に換装されている。
加賀は大正九年七月十九日、八八艦隊戦艦の第二陣加賀型の一番艦として、神戸川崎造船所で起工され、十年十一月十七日に進水した。進水後はワシントン条約の締結により工事を中止していたが、その廃棄が決定された。しかし空母への改造を予定していた巡洋戦艦天城、赤城のうち、横須賀工廠で建造中の天城が大正十二年の関東大震災により船台上で損壊、進水が不可能となったため、急きょその代換として本艦が空母に改造されることになったもので、これはワシントン条約締結国の了解を得て決定された。加賀は進水後、横須賀に回航されて処分を待っていたが、この決定により大正十二年十二月十三日に空母への改造工事に着手するところとなった。加賀の空母への改装工事は、基本的には赤城の場合と同じであったが、赤城の巡洋戦艦に対して戦艦である加賀は長さも短く、速力も低速で空母としては、あまり有利な点は少なかったが、代換艦として他に適当な艦もなく致し方なかった。とくに赤城に対して最大の相違は煙突の形態であり、赤城の舷側湾曲煙突に対して、煙路を飛行甲板に沿って、艦尾まで遠く誘導煙突方式が採用された。これは当時、空母の煙突としてまだ形態が確立しておらず、試行錯誤の時代であったことから見れば、致し方ないところであった。加賀は昭和三年三月三十一日に、いちおう形式的には竣工したとして引き渡しを終えたが、実際には赤城の予算不足分を本艦分より流用したこともあって、予算が大幅に不足して思うように工事が進行せず、実際に工事を完了したのは昭和四年十二月のことで、実際の引き渡しは赤城以上に大幅に遅れたのであった。加賀の新造時の主要目は次のとおりであった。
基準排水量(計画)=二六、九〇〇トン
〃 (実際)=二九、五〇〇トン
公試排水量=三三、六九三トン
全長=二三八・五メートル
水線長(公試)=二三〇・〇メートル
垂線間長=二一七・九三メートル
最大幅=三一・六七メートル
水線幅(公試)=二九・五七メートル
平均吃水(公試)=七・九二メートル
深さ(飛行甲板)=二九・五七メートル
〃 (最上甲板)=一八・六七メートル
飛行甲板長(上段)=一七一・三〇メートル
〃 幅( 〃 )=三〇・四八メートル
〃 長(下段)=五五・〇二メートル
〃 幅( 〃 )=二四・三八メートル
主機=ブラウン・カーチス式ギアード・タービン四組
軸数=四
缶=ロ号艦本式専焼缶大型八基、同小型四基
出力(計画)=九一、〇〇〇軸馬力
速力(計画)=二六・七ノット
〃 (公試)=二七・五ノット
燃料搭載量=重油八、二〇〇トン
航続力=一四ノットにて八、〇〇〇カイリ
兵装=五〇口径三年式二〇センチ連装砲二基、同単装六基
四五口径一〇年式一二センチ連装高角砲六基
留(ルイス)式七・七ミリ機銃二梃
搭載機=六〇機
短艇=一六隻
乗員数=一、二六九名
加賀は赤城にくらべて戦艦と巡洋戦艦の差として、排水量では大差なかったが、全長では二二・七メートル短く、艦幅(最大幅)ではわずかに五六センチ大きい。排水量は公試状態排水量では六七一トンの差があるが、基準排水量では大差ないものとされていた。本来、赤城と加賀はワシントン条約の特別条項に基づいて建造されたもので、排水量(基準)のリミットは三三、〇〇〇トンであったから、特に単艦の排水量でこの制限をオーバーする気遣いはなかったが、合計排水量の制限があった関係からか、単艦排水量は両艦とも二六、九〇〇トンと公表されていた。また速力についても赤城が二八・五ノット、加賀は二三ノットと四〜五ネット低く公表されており、このあたりより海軍省の公表する軍艦、艦艇の公表要目は作為的なものとなっていった。ちなみに米国のレキシントン、サラトガは条約のリミット一杯の三三、〇〇〇トンであったとも言われており、このへんは、なかなか一筋縄では行かないところである。さて、加賀ではこのように赤城と寸法的にかなり差があった関係で、最上段の着艦甲板は一九メートル短く、ただし後端部は赤城のように幅を狭めておらず、最大幅のままで、船体の艦尾端とほぼ同じ位置まで張り出されている。また赤城ではこの飛行甲板は艦尾から中央部に向け約一・五度の軽い傾斜がつけられており、中央部から前方は逆に〇・五度の軽い傾斜がつけられ、すなわち軽く弓形に沿った形をしていたのに対し、加賀の場合は完全にフラットな形状になっている。これは艦首砲熕からの逆着艦を考慮したためともいわれている。この最上段の飛行甲板は加賀の場合、煙突が左右に分かれて誘導されているためバランスは等しく、従って飛行甲板のセンターラインと船体の中心線は等しい。エレベーターの配置と数に変わりはないが、エレベーターのサイズは前部が一〇・六七×一五・八五メートル、後部が一二・八×一五メートルと大型になっており、これは機体の大型化に対処したものであった。同じく中段および下段の飛行甲板も加賀の方が幅は広く、とくに下段飛行甲板の前端部は赤城では丸味を帯びていたが、加賀では切り落とした形状となっている。艦橋位置や形状については赤城の場合と変わりなく、ただ前檣は細い鉄骨状のものに変わっている。加賀の機関出力は赤城より低い九一、〇〇〇馬力であったが、缶はすべて重油専焼缶とされ大型八基、小型四基の一二基を搭載していた。この排煙方式として加賀では煙路を両舷にわけて、船体中央の飛行甲鈑の下より艦尾沿いに飛行甲板両側を艦尾に導き、艦尾で両側とも舷外に斜め後方下向けに曲げて排煙する方式を採用していた。この方式は先に英空母アーガスやフューリアスなどが、ほぼ類似の方式を採用しており、赤城の舷側湾曲煙突と長短を比較する意味から採用されたものらしく、船体に対する重量バランスの点では問題なかったが、まず重量的には艦尾まで長い距離の誘導煙突を設けたために不利で、赤城より約一〇〇トンあまり煙突関係の重量を要したといわれている。しかし、それ以上に問題となったのは、艦尾の気流の乱れが予想外に大きく、かつこの煙路沿いの居住区が、高温のため使用に耐えられないことであった。兵装、防御なども特に赤城と変わるところは少なく、二〇センチ砲および一二センチ高角砲の配置もほぼ同じである。加賀の場合、煙突が艦尾のため高角砲に対する被害はなく、従って煤煙除けシールドもない。舷側水線部の主甲帯も戦艦時の一一インチ甲鈑を再圧延して、五インチに薄くして装備したもので、これも赤城と同じであった。搭載機数および機種も赤城と同じである。格納庫も上・中・下三段で、上部格納庫の前面に艦橋があり、右舷に起倒式の前檣と後檣がある。この前檣のやや後方に主砲指揮所と高角砲指揮所が両舷にある。飛行甲板上の制動装置は赤城と同じく縦索式のもので、ただ装備範囲は赤城の九六・三(長さ)×七・四(幅)メートルに対して、九〇・五(長さ)×二七・四(幅)メートルとなっている。また後部エレベーター両側の飛行甲板上、高角砲指揮所後方の張り出し部に一一〇センチ探照灯が、いずれも隠顕式に装備されている。加賀は昭和三年三月三十一日に形式上は引き渡しを終えたことになっていたが、事実上はただちに第4予備艦となり、工事を続行した。加賀は同年十二月四日の特別観艦式に参加するため九月より運転公試に入り、排水量三三、七〇〇トンで速力約二七・五ノットを得ている。特別観艦式での加賀は、外観的にはほとんど完成状態に見えたが、肝心の航空艤装が未完了で、また二〇センチ連装砲も未搭載であった。昭和四年に入って加賀は工事を続け、同年十二月六日、搭載機の発着艦試験を兼ねて、横須賀航空隊に預けてあった艦攻、戦闘機など二八機を収容、ここに空母としての装備を終えて事実上の完成となった。加賀は十二月八日に横須賀を出港して母港の佐世保へ向かった。これ以前に加賀は十一月三十日付けで第1航空戦隊に編入されており、赤城に代わって旗艦となった。昭和五年三月、加賀は初めて艦隊と行動をともにした。しかし同年末に予備艦となり、佐世保工廠で工事を実施。このときに飛行甲板の制動装置をフランスより購入したフュー式制動装置(横索式)に換装したものらしかった。また一三ミリ連装機銃四基の装備もこの時の工事と思われ、主砲指揮所の後方、飛行甲板後部の両側にそれぞれ装備された。昭和七年一月、加賀は上海事変のため出動、同年三月に帰投した。昭和八年、加賀は右舷主砲指揮所の前方に小型の艦橋を仮設している。しかし、この直後の十月に第2予備艦となり、佐世保工廠で大改装工事に着手するところとなり、加賀の現役就役は四年間で、早くも大改装に着手するところとなったのであった。
新造時の赤城
赤城は大正九年十二月六日、呉工廠で起工された。本艦はそもそも八八艦隊の最初の巡洋戦艦天城の二番艦で、後にワシントン条約により廃棄が決定されたとき、赤城は船体の最下甲板の防御甲板までが、ほぼ出来上がっていた状態であった。ワシントン条約においては、特例として、廃棄する主力艦を二隻まで空母に改造することを認めており、ただし排水量は三三、〇〇〇トン以内、備砲八インチ一〇門までとされていた。この特例に基づいて、日、米はそれぞれ二隻ずつの巡洋戦艦を空母に改造することになり、選ばれたのが赤城、天城、米国ではレキシントンとサラトガであった。赤城は大正十二年十一月九日、航空母艦と正式に定められて工事を再開、大正十四年四月二十二日に進水、昭和二年三月二十五日に完成した。赤城の新造時の要目は次のとおりである。
基準排水量(計画)=二六、九〇〇トン
〃 (実際)=二九、五〇〇トン
公試状態排水量=三四、三六四トン
全長=二六一・二メートル
水線長(公試状態)=二四八・九五メートル
垂線間長=二三四・七〇メートル
最大幅=三一・一〇メートル
水線幅(公試)=二八・九六メートル
平均吃水(公試)=八・〇八メートル
深さ(飛行甲板)=二九・〇メートル
〃 (最上甲板)=一六・九六メートル
飛行甲板長(上段)=一九〇・二メートル
〃 幅( 〃 )=三〇・四八メートル
〃 長(下段)=五五メートル
〃 幅( 〃 )=二二・八六メートル
主機=艦本式オールギアード・タービン四組
軸数=四
缶=ロ号艦本式専焼缶一一基、同混焼缶八基
出力(計画)=一三二、〇〇〇軸馬力
〃 (公試)=一三七、〇〇〇軸馬力
速力(計画)=三二・五ノット
〃 (公試)=三二・六ノット
燃料搭載量=重油三、九〇〇トン、石炭二、一〇〇トン
航続力=一四ノットにて八、〇〇〇カイリ
兵装=五〇口径三年式二〇センチ連装砲二基、同単装六基
四五口径一〇年式一二センチ連装高角砲六基
留(ルイス)式七・七ミリ機銃二梃
搭載機=六〇機
短艇=一六隻
乗員数=一、二九七名
本艦の基本計画を行なったのは藤本喜久雄造船大佐で、当時ほかに例のない大型艦の空母への改装であり、まだ鳳翔も完成前であったので、その設計は容易でなかったといわれている。基本的な艦型は当時、英国が計画していた全通甲板艦と異なり、英国が同じく改装中であったフューリアスなどと同じ多段式飛行甲板方式を採用、しかも他に例のない三段式というユニークな形態を採用していた。この方式では最上部の飛行甲板は着艦専門とし、その下の中部飛行甲板を小型機(艦戦)発艦用、下部飛行甲板を大型機(艦攻)発艦用にそれぞれ機能を分離し、効率よく飛行作業を行なおうという目的から発したもので、一見、これが想定したとおりに働けば理想的な空母となるはずであったが、後の歴史が示すように空母における多段式甲板は、結果的には失敗であった。これは第一にまず、このような短い飛行甲板で発艦を行なうのが困難であったことで、特に機体の刷新とともに機の重量が増大するにつれて、ますます長い発艦距離を要するようになり、有力な射出機でも備えない限り、発着艦甲板の分離方式は無理となり、廃止される方向にむかった。赤城ではこの三段式飛行甲板を採用、最上部の長さ一九〇メートル、幅三〇・五メートルの飛行甲板を着艦専門甲板と予定しており、この甲板は強度甲板ではなく二ヵ所に伸縮ジョイントを設けていた。エレベーターは前後に合計二基があり、前部は一一・八メートル(幅)×一三メートル(長さ)、後部は八・四メートル×一二・八メートルと前部の方が大型で、艦攻などの大型機用、後部が小型機用とされていた。前部エレベーターの前後には遮風柵があり、また前部エレベーターの後方から艦尾にかけて約一〇〇メートルほどの部分に、鳳翔と同方式の縦索制動装置が設けられていた。エレベーターは電動で、とくに後部のエレベーターは二段式として降下中も飛行甲板を塞ぐことが出来る構造となっていた。遮風柵は油圧を動力として、起倒式で鋼板に孔をあけた構造となっていた。格納庫も三段あり、上段の格納庫は戦時格納庫と称して当初、周囲を密閉せずに開放式としており、その甲板は中段の飛行甲板と結んでいた。その下の格納庫は下段飛行甲板と連結したもので、更にその下方に短い格納庫があった。飛行甲板などの航空艤装とともに苦心したのは煙突の形態で、これについては鳳翔の方式も気流を乱すとして改正を求められており、このため霞ヶ浦の技術研究所で模型による風洞実験を繰り返したが、あまり良好な答えが出ず、赤城では右舷中央やや前方寄りに、大型の煙突を舷側より突き出し、それを一二〇度折り曲げて斜め下方に向ける湾曲煙突が採用され、さらにその後方に逆に上方に向けた小型煙突(混焼缶用)の二本煙突方式となった。とくに下方に向けられた大型煙突は、艦が傾斜時にその開口部が海水で塞がれるのを防ぐため、上背面に盲蓋を多数設けてあり、そのような事態となったときはこの盲蓋を取りのぞいて、排煙できるよう配慮されていた。また排煙時に海水のシャワーを噴霧して、排煙の温度を下げる配慮もされていた。この大型煙突の装備により左右の重量バランスを保つため、最上段の飛行甲板は中心線をいくぶん左舷にずらしてあった。兵装のうち、二〇センチ砲は連装砲が中部飛行甲板両側、単装砲が艦尾のケースメイトに装備され、数は条約限度一杯であったが、有事には他に六門をケースメイトの前方に追加装備できるスペースを確保していた。とうじ大型空母としては重巡との交戦を考慮する必要があり、防御的にも重巡の二〇センチ砲に対抗できるよう、巡洋戦艦時の一〇インチ舷側甲帯を五インチ(一二七ミリ)に再圧延して装備していた。二〇センチ砲は正八インチ砲ではなく正確には二〇〇ミリ砲で、単装砲は古鷹型とほぼ同じA1型、連装砲は口径以外は高雄型と同じ七〇度の大仰角を持つ、対空射撃兼用のB型であった。高角砲は四五口径三年式一二センチ連装砲で、中央部舷側のスポンソン上に各舷三基ずつが装備され、煙突の関係で左右対称とはなっていない。特に右舷側の各砲には煤煙除けのシールドが装着されている。艦橋については当初、上部の戦時格納庫前端右舷寄りに設け、左舷側に簡単な見張所を置く程度のことを考えていたが、艤装中に艤装委員長(艦長)より、このような構造では大艦の艦橋として位置が低すぎ、上空も見えず、かつ左右に分かれていてはとても操艦できないと強硬な意見が出され、ついに格納庫前面に両舷にわたる広大な艦橋を設け、上部にはマンホールを設けて飛行甲板との連絡用として、さらに両側に張り出し部を設けて上空見張所とするなどの大改正を実施、けっきょく新造時より中段飛行甲板は艦橋の新設で発艦不能の状態にあった。本艦の建造にあたっては、初めての大型空母として建造費見積もりなども正確を期すことができず、船体の完成と一般艤装の段階で予算がなく、追加予算の成立もおぼつかないため、とりあえず他艦艇の新造費や一般修理予算を流用して工事を進めるほかなく、形式的に竣工(引き渡し)した昭和二年三月二十五日現在、まだ多くの残工事を残していた。航空艤装が整い各種の公試が始められたのは五月に入ってからで、最後の発着艦試験は七月三十一日に伊予灘で実施され、実質的にはこの日をもって完成ということになった。搭載機は新造時、三式艦戦一六機、一〇式艦偵一六機、一三式艦攻二八機の合計六〇機が予定されていたが、これは戦時の数字で、平時には艦戦、艦偵、艦攻各一二機、同予備各四機の合計四八機を定数としていたという。赤城は同年八月一日に連合艦隊付きとなって大演習に参加、翌三年四月、鳳翔とともに最初の艦隊航空戦隊である第1航空戦隊を編成した。昭和三年末から翌年初めにかけて呉工廠でふたたび残工事を行ない、上部戦時格納庫の密閉化、二〇センチ連装砲の搭載などを行なって、ふたたび艦隊に復帰した。昭和六年末、予備艦となったときに横須賀工廠で無線工事や通風工事などの小工事を実施しており、このときに後部飛行甲板両側に一三ミリ連装機銃四基(各舷二基)の装備を実施したものらしい。さらに昭和八年九月から翌年一月のあいだに、上部飛行甲板右舷前方に小型の艦橋を設けたが、これは先に加賀が装備していたものといわれている。なお制動装置は昭和六年ごろに萱場式に換装したといわれているが、その後まもなく呉式一型に再換装したものと思われる。赤城はこのまま昭和十年末に佐世保工廠で大改装に着手することになるのである。
赤城、加賀の20センチ砲
赤城、加賀が航空母艦に改装を決定した大正十一年当時は、ジュットランド海戦が行われてから間もないころであり、航空機は未発達で、主力艦の主砲が洋上決戦のカギを握るものと信じられていた。このため艦載機を搭載して航空攻撃能力を有する航空母艦であっても、対水上艦隊攻撃用に有力な砲熕兵装を装備するのが普通であり、日本海軍最初の空母鳳翔も軽巡の主砲なみの一四センチ砲を装備しており、赤城、加賀の空母改装にあたっても、そうとうの砲熕兵装を装備することが計画された。大正十九年十一月に締結されたワシントン軍縮条約における空母の備砲制限は、口径八インチ(二〇・三センチ)以下で、六インチ(一五・二センチ)以上の砲を有するときは、五インチ(一二・七センチ)以上の砲の合計は一〇門以内とする。ただし二七、〇〇〇トン以上の艦は八門以内とする、というものであった。赤城、加賀の基準排水量は二六、九〇〇トンであったから、条約の制限によれば二〇センチ砲一〇門までを搭載可能であり、当然のことながら計画に当たっては、条約制限ぎりぎり一杯の二〇センチ砲を一〇門搭載し、敵の二〇センチ砲搭載の巡洋艦と遭遇しても、充分に対処可能な装備とすることが決定した。二〇センチ砲の装備方法については、二〇センチ連装砲と砲郭式の混載案、全門砲塔式とする案などが検討されたが、航空母艦への改装計画で三段式飛行甲板で艦橋を持たない平甲板とすることが決定したため、最終的には二〇センチ連装砲塔を、三段式飛行甲板の二段目の羅針艦橋部直前の両舷に各一基装備し、艦後部の中甲板に二〇センチ単装砲を砲郭式に、片舷三門ずつ合計一〇門装備するなどで落ち着いた。この装備方法により片舷五門の砲力を有することになり、さらに二〇センチ連装砲二基により艦首線上の砲力も四門を得ることができた。このほか高角砲として一二センチ連装高角砲を、片舷二基ずつ合計一二門を飛行甲板下のスポンソン上に装備したが、当初計画では一二センチ単装砲を、艦後部の中甲板に装備した二〇センチ砲に並べて砲郭式に二門装備し、有事のさいはこれを二〇センチ砲に換装する案も検討されたといわれており、赤城、加賀の写真を見てもわかるとおり、二〇センチ単装砲二門の艦首寄りに充分な装備スペースを有していた。この当時、空母に二〇センチ砲を搭載していたのは日本海軍だけでなく、ワシントン軍縮条約に基づき巡洋戦艦サラトガ、レキシントンを空母に改装していた米海軍でも、空母改装にあたって巨大な艦橋構造物と煙突との前後に二〇センチ連装砲二基ずつ背負式に装備していたが、装備方法については米海軍の方が一歩優っていた。さて、赤城、加賀に装備された二〇センチ砲は、五〇口径三年式二〇センチ1号砲と呼称されており、口径は正二〇センチ(七・九インチ)砲で、重巡古鷹型、青葉型に搭載されたものと同型式の砲である。赤城、加賀に装備された二〇センチ連装砲は、古鷹型に搭載された単装砲を新式のB型連装砲架に搭載したもので、主要諸元は次のとおりである。
口径=二〇センチ
膅長=五〇口径
初速=八七〇メートル/秒
最大俯仰角=マイナス五度〜プラス七〇度
最大射程=二八、九〇〇メートル
発射速度=三発/分
旋回速度=四度/秒
俯仰速度=六度/秒
本砲の砲塔構造は明らかでないが、赤城、加賀の改装計画が進んでいた大正末期には、二〇センチ連装砲を搭載した重巡青葉型の建造も行なわれており、青葉型は完全砲塔型式の二〇センチ連装砲塔を採用していた。赤城、加賀においても、完全砲塔型式の二〇センチ連装砲塔が搭載されたものと考えられ、輥輪盤直径は青葉型と同じ五、三〇〇ミリであった。本砲は中段飛行甲板の高い位置に装備されていたため、弾火薬庫は中甲板レベルにあり、弾火薬庫防御構造には特別の配慮がなされていたと思われるが、詳細は不明である。本砲の特長は最大仰角七〇度という点で、これにより対空射撃も可能であった。砲室は青葉型、妙高型に搭載された前楯部に丸みを持った型式と異なり、むしろ高雄型の砲室に類似した角型構造で、砲室防御は二五ミリNVNC鋼であった。二〇センチ単装砲は五〇口径三年式1号砲を、円錐台型式のA1型砲架に搭載し、砲廓内に装備したもので、日本海軍で二〇センチ砲をケースメイト装備したのは赤城、加賀のみであった。本砲の最大仰角は二五度で、その他の主要諸元は連装砲と同一である。赤城、加賀は近代化改装工事のさい、前部の二〇センチ連装砲二基を撤去したが、加賀は後部の二〇センチ単装砲を二門増設し、片舷五門合計一〇門装備とした。だが赤城は増設されず、片舷三門の合計六門とされた。
赤城/加賀の建造までの経緯と八八艦隊の空母
大正九年の第四三議会で、日本海軍が長年熱望していた八八艦隊完成計画が成立したが、この中に二隻の航空母艦の建造が含まれていた。これは、八六艦隊完成計画で建造が決まった鳳翔につづく、二隻目と三隻目の航空母艦である。すなわち、日本海軍は八八艦隊計画では、鳳翔を含めて三隻の空母を艦隊に配備する計画だったのである。この二隻の空母は同型で、一番艦は翔鶴と命名される予定だったが、二番艦の方は艦名はまだ具体化していなかった。翔鶴型は、常備排水量一二、五〇〇トンという以外にその内容は知られていないが、搭載機数は二四機、一二センチ高角砲装備の計画だったと推測しているむきもある。八八艦隊完成計画によれば、翔鶴は大正十〜十二年度で、また二番艦は大正十三〜十五年度でそれぞれ建造の予定とされ、船体の建造所には、いずれも鳳翔の船殻工事を担当した浅野造船所が予定されていたといわれている。八八艦隊完成計画の成立に先立つ大正七年六月に国防方針の第一次改訂が行なわれ、国防に要する海軍兵力は従来の八八艦隊に主力艦八隻を基幹とする艦隊一個を増加した。八八八艦隊を基幹とした兵力に改められた。この八八八艦隊に配備すべき航空母艦は四隻の計画とされており、八八艦隊完成計画までの三隻にくわえて新たに翔鶴型一隻の建造が計画されていたと伝えられている。この艦は大正十六年度(昭和二年度)末までに完成させる構想で、船体の建造所はそれまでの艦と同様に浅野造船所の予定だったといわれている。八八艦隊完成計画による翔鶴型は、いずれも起工に至らぬうちにワシントン海軍軍縮条約が成立したために建造中止となり、この型はついに幻の空母として終わってしまった。大正十一年二月に締結された海軍軍縮条約は、主力艦の各国保有量と新造艦のトン数および主砲口径の上限を定めたほかに、誕生まもない航空母艦についても、次のような規定が設けられた。
(1)航空母艦とは、もっぱら航空機を搭載する目的で設計され、航空機が発着し得る構造を持つ、基準排水量一〇、〇〇〇トンを超える軍艦をいう。
(2)各国の保有し得る総トン数(基準)を、日本八一、〇〇〇トン(比率三)、米国一三五、〇〇〇トン(同五)、英国一三五、〇〇〇トン(同五)、フランス六〇、〇〇〇トン(同一・七五)、イタリア六〇、〇〇〇トン(同一・七五)とする。
(3)単艦の基準排水量は、一〇、〇〇〇トン以上二七、〇〇〇トン以下とする。ただし、合計トン数の範囲内で三二、〇〇〇トン以内の艦を二隻まで建造できる(一〇、〇〇〇トン以下の艦は対象外。したがって鳳翔は、保有総トン数の枠外となる)。
(4)備砲の口径は、八インチ(二〇・三センチ)以下。ただし六インチ(一五・二センチ)以下の砲を装備したときは、五インチ(一二・七センチ)以上の砲との合計を一〇門以内とする(二七、〇〇〇トン以上の艦では八門)。
(5)現存間は、三、〇〇〇トンの増加範囲内で水平および空中防御力を強化できる。
(6)艦齢は二十年とし、これを過ぎたら代艦が建造できる。
このような条約が締結されたため、八八艦隊完成計画に基づいて実施せんとしていた日本海軍の空母建造計画は、大幅に変更することを余儀なくされてしまった。すなわち、八八艦隊完成計画により建造が決まっていた翔鶴型二隻は、当時いずれも未起工の状態にあったので、ワシントン条約で建造が中止となった八八艦隊の主力艦群のうち、比較的工事の進んでいる二隻の船体を活用して大型空母に設計変更のうえ完成させ、翔鶴型は大正十二年十一月に建造中止とされたのである。これにより空母の建造数は、八八艦隊と同じの二隻だったが、その船型ははるかに大型となり、翔鶴型の二倍以上の巨艦となったのであった。このように途中から空母として建造されたのが、赤城と加賀である。しかし最初からこの二隻の組み合わせで空母化が考えられたのではない。まずこの二艦を空母として改造する方針がきまるまでの経緯を簡単に触れてみよう。八八艦隊の主力艦建造計画は、大正四年に戦艦長門の建造が成立したときに始まる。ついで大正五年に八四艦隊完成計画が認められ、これにより戦艦三隻(陸奥、加賀、土佐)、巡洋戦艦二隻(天城、赤城)の建造が決まった。加賀と土佐の二隻は新造艦で、長門型より重防御、強兵装の高速戦艦である。また天城と赤城は、加賀型と同一兵装を持ち、長門型に匹敵する防御力と、三〇ノットの高速力を備えた巡洋戦艦であった。さらに大正六年には八六艦隊完成計画が成立し、天城型巡洋戦艦二隻(愛宕、高雄)の建造が認められた。次いで第一次世界大戦終了直後の大正八年に、八八艦隊完成計画を成立させ、大正九〜十六年度の期間に戦艦四隻(紀伊、尾張、第一一号、第一二号戦艦)および巡洋戦艦(第八〜一一号巡洋戦艦)を建造することになった。ここに述べた紀伊型および第八号型巡洋戦艦の内容については、本稿の主題に直接関係ないので省略する。冒頭に記した翔鶴型二隻もこの時の計画に含まれていたものである。さて、ワシントン条約によりこれら一六隻の主力艦は、すでに完成していた長門と陸奥の二艦をのぞき、すべて建造中止となってしまった。ちなみに条約が調印された大正十一年二月の時点で、これら諸艦の状況は次のとおりであった。
戦艦加賀、土佐
大正九年七月および二月に起工され、軍縮会議中の大正十年十一月と十二月に進水した。
巡洋戦艦天城、赤城
両艦とも大正九年十二月に起工され、船台上あるいは船渠内で船殻工事中だった。
巡洋戦艦愛宕、高雄
軍縮会議開催直後の大正十年十一月および十二月に起工。
戦艦紀伊、尾張
軍縮会議直前の大正十年一月に製造訓令が出されたが、未起工だった。
戦艦第一一号、第一二号
製造手続き未済。
巡洋戦艦八号〜一一号
製造手続き未済。
このような状況から、空母に設計変更して完成させるのに適した工事状態の艦は、天城、赤城、加賀、土佐の四隻だけだったことがわかる。ワシントン条約で、空母の単艦排水量の上限を二七、〇〇〇トンと定めた理由は良くわからない。一説には各国が、それぞれ廃棄あるいは建造中止となる自国の主力艦、超大型巡洋艦を空母化する場合の予想トン数を上限とするよう主張し、その妥協点が二七、〇〇〇トンだったともいわれているが、真疑は定かでない。だが、このトン数は、日本海軍にとって都合の悪いものではなかった。設計上、困難な問題はあるが、これにより建造中止となった八八艦隊計画の主力艦を空母化できることになったからである。日本海軍は、すでに大正七年に空母の速力には三〇ノットが必要との考えを打ち出しており(鳳翔の建造経緯参照)、これに適合する速力を有し、かつ船体長が大きな巡洋戦艦天城型(三〇ノット)の方が、建造工程が先行し、進水済みの戦艦加賀型(二六・五ノット)より空母化に適していることは明らかだった。そこで天城、赤城の二艦が、巡洋戦艦としての建造を取り止め、空母に変更して完成させることが決定された。これに伴い残りの建造中の艦(四隻)は、大正十一年二月に工事中止の指示が出され、翌十三年に加賀をのぞく三艦は建造取り止めの発令が発せられ、廃棄処分に付された。また未起工の八隻は、大正十二〜十三年に建造取り止めの命令が出された。ところが、大正十二年九月一日の関東大震災により、横須賀工廠の船台上で空母改造工事着手直前の状況にあった天城は、船体に大きな歪みを生じて建造困難となり、空母改造を断念して解体することを余儀なくされた。この災害の結果、空母改造に当てる主力艦一隻の充当が必要となり、進水後、来るべき廃棄処分を待っていた戦艦加賀を、代わりに空母として完成させることに決した。かくして赤城、加賀の二艦が空母として建造されることになり、大正十二年度の艦艇建造新計画により、従来の建造費の予算改訂を行ない、赤城は大正十五年度、加賀は大正十六年度(昭和二年度)完成の予定で、建造計画が定められた。両艦の空母改造にさいして、軍令部から出された要求事項については、現在のところ明らかになっていない。しかし、飛行機が発着艦し易いことが重要項目として要求されていたようで、これに対応して外国でも例を見ない三層飛行甲板方式を採用し、さらに飛行甲板上には艦橋構造物を設けずクリアとした平甲板型とした。ちなみに三層の飛行甲板は、上から発着甲板、戦闘機の緊急発進甲板および発艦甲板とされていた。このような方式は、次の利点があると考えられていた。(1)発艦甲板上に飛行機が発進準備態勢で駐機していても、着艦機の妨げにならぬ。(2)大型機は格納庫内で折りたたみ翼を展張して発進でき、外国艦のように露天風圧下に翼の展張、取り付け困難な作業の必要がない。(3)二〇センチ連装砲塔二基を適切な位置に装備できる。(4)必要な場合は、最上部の帰着甲板の前部を発艦甲板として使える。もう一つ重要な問題は、着艦に悪影響をあたえる気流が生じないような、煙突の導設法である。前記のように赤城と加賀は、その出生が異なるため、空母としての設計は別個に行なわざるを得なかった。そこで比較実験のために、それぞれまったく異なった方式の煙突が設置されることになった。もし天城が破損せずに空母化されていたら、赤城と同一の設計で建造されていただろう。赤城は、右舷側外側に向けて湾曲煙突を設け、熱煙冷却装置を装備したのに対して、加賀は英空母アーガスに倣って飛行甲板両舷直下に煙路を艦尾まで設け、斜め外側に開口させる方式を採用した。重巡との交戦を考えて、ワシントン条約の許容限度一杯の備砲を装備することも、軍令部の要求だったと思われる。これを満たすため、戦闘機緊急発進甲板に二〇センチ連装砲二基を配備するとともに、船体後部両舷のケースメイトに二〇センチ単装砲を三基ずつ装備する、きわめて特異な方式を採用した。このような基本構想に従って設計が取りまとめられた赤城、加賀の概要については、別稿の解説を参照されたい。同時期に竣工した、米国のレキシントン級や英国のハーミズと比べて、空母としての構造や艤装が中途半端な面を多々残しており、後に近代化改装を実施する破目になったが、これは当時の日本海軍が空母に対する用兵上の要求を明確に定めるに至っていなかったことを物語っている。
空母『赤城・加賀』の航空艤装と砲熕兵装
◇航 空 艤 装◇
(1)飛行甲板=赤城、加賀両艦の新造時の最大の特長は、3段式の飛行甲板であった。計画では一番低い飛行甲板を主たる発艦甲板とし、最上段のそれを着艦甲板として、中段と最上段の前部は必要に応じて発艦甲板として使用するというもので、下段からは攻撃機3機が同時に発艦できるようになっていた。下段の飛行甲板は上甲板の前部にあたり、長さが55.2メートル、幅が22.9メートル(加賀は24.4メートル)と今日的な目から見れば、はなはだ短いものであるが、当時は航空機自体もやっと実用化に入ったばかりで、機体重量も小さかったのでこの程度で十分だったのであろう。中段の飛行甲板は、艦橋と20センチ連装砲塔の前方にあたり、長さは15メートル程度のものだったため、実際問題としては小型の戦闘機といえども発艦することが困難だった。上段の飛行甲板は長さが190.2メートル(加賀は171.2メートル)、幅が30.5メートルで、赤城の場合は発艦機に対する気流上の配慮から、側面が吃水線に対してゆるいカーブを描いていた。具体的には飛行甲板の全長に対して、艦首から約五分の二の長さが艦首方向に対して1.5度ほど下がっている。「海軍造船技術概要」第二分冊に掲載されている本艦の帰着甲板側面図を見ると艦尾よりの約五分の一は段がついていて、前部約五分の四よりも33センチ高くなっているように描かれているが、写真で見るかぎり、段はついてないようである。一方、加賀にはこのようなカーブはなかった。このような3段式飛行甲板は、外国でも例はなかったが、ハッシュ・ハッシュ・クルーザーを改造したイギリスのフェーリアス、カレイジアスおよびグローリアスの三艦は、2段式飛行甲板を備えていた。ことにフェーリアスは1925年(大正14年)に本格的な空母として就役しているので、赤城、加賀の両艦を空母に改造する際、これを参考にしたことを想像するに難くない。それではこのような多段式ともいえる飛行甲板形式は、どのような理由から生まれたのであろうか。それは発艦と着艦をそれぞれ別々な飛行甲板で行なうことによって、同時に発着艦を行なえるという運用上の大きなメリットがあったからである。単一の飛行甲板しか持たない空母は、相当大型な艦でも発着艦を行なうことは不可能であった。ちなみに、単一飛行甲板で同時に発着艦できるようになったのは第二次大戦後で、アングルド・デッキがこれを可能にした。多段式飛行甲板のもう一つのメリットとしては、エレベーターを使用せず、直後、格納庫から発艦できるという点である。しかし艦上機の発達は、多段式飛行甲板のメリットをデメリットに変えてしまった。すなわち艦上機の発着艦速度がだんだん大きくなってきたのである。そこで日本海軍はまず戦艦を改造した低速の加賀を、昭和9年から10年にかけて近代化改装し、3段あった飛行甲板を1段に改めて島型艦橋を設けたほか、機関、兵装関係を一新させた。これによって加賀の飛行甲板は全長248.6メートル、幅30.5メートルのものに一新した。赤城も加賀のあとを追って昭和10年から13年にかけて近代化改装され、加賀と同様に全通の1段飛行甲板の島型空母に生まれ変わり、飛行甲板は全長249.2メートル、幅30.5メートルとなったが側面のカーブは依然としてつけられていた。
(2)着艦装置=赤城が新造時に装備した着艦拘束装置は、当時イギリス海軍が採用していたワイヤーを縦に張ったもので、最上部飛行甲板中後部の長さ約100メートルの部分に設けられた。この装置は、鳳翔にも採用されていたが、機構的に複雑なうえ、滑走速度の減殺にあまり効果がなく、しかも着艦のやり直しを著しく困難にしたため、パイロットに危険性すら感じさせるという代物だった。これのメカニズムについては、いずれこのシリーズで鳳翔を取り上げた際、そこで述べるつもりである。一方、加賀はフランス空母ベアルンに採用されていた横索式の着艦拘束装置を昭和5年に導入した。この装置はフランスのシュナイダー社の製品でフュー式といい、その機構は次のようなものであった。直径約7センチのアルミ合金製ドラムの内側に、これの力によって横張りの着艦ワイヤーの制動力を調節するというもので、ひとつのドラムの両端から出た2本のワイヤーで、ひとつの着艦ワイヤーを制御する仕組みである。このような横索式の着艦拘束装置は、当時アメリカ海軍でも相当進んでおり、よく赤城、加賀の両艦と対比されるサラトガ、レキシントンの2隻は、20秒間隔で搭載機を着艦させることができたといわれる。赤城の横索指揮着艦拘束装置は、前述のような状態であったため、萱場資郎氏が横索式のものを開発すると同時にそれを採用し、昭和6年に装備された。この装置は、制動力に油圧を使用した点に特色があり、両舷に一対の制動機を装備し、これから1本の横索を展張するというもので、性能的にはまだまだ低いものであったが、国産したという点で、大きな意義があった。赤城、加賀の両艦が最後に装備していた着艦拘束装置は、昭和8年に開発された呉式1型の改良型である呉式4型で、これを12基(横索12本)有した。呉式というのは呉海軍工廠電気実験部が中心になって開発したもので、電気磁石を利用した着艦拘束装置であった。ちなみに呉式4型が実用化されたのは昭和13年で、15年まで製作された。
(3)滑走制止装置=呉式着艦拘束装置の実用化によって空母の着艦能力は向上したが、20秒間隔の着艦にはまだ遠く、そのために日本海軍は飛行甲板の3分割使用法を考案した。すなわち飛行甲板を発艦、着艦および収容の3区域にわけ、着艦時は前部エレベーターを境に、その後部を着艦区域、その前部を収容区域とし、着艦機は前部エレベーターで格納庫へ入れるか、または前部飛行甲板にパーキングさせ、次々と着艦作業を行なうというものである。そのためエレベーター後方に不良着艦機の追突を避け、また降下エレベーターのホールに転落するのを防ぐための装置が、滑走制止装置である。加賀は近代化改装後のおり、日本空母としてこの装置を最初に装備した。この装置は航空技術廠で開発されたため、空技廠式滑走制止装置1型と呼ばれ、その機構は2本の支柱間に3本の制止索を展張したもので、中央索は両舷の油圧制動装置に接続しており、支柱は圧搾空気によって素早く起倒するようになっていた。加賀はその後、滑走制止装置を空技廠式3型に改めているが、赤城の方は加賀よりも遅く近代化改装されたため、最初から空技廠式3型を装備したものと思われる。
◇砲 熕 兵 装◇
(1)20センチ砲=赤城、加賀の両艦は敵巡洋艦に遭遇しても砲戦ができるように、20センチ連装砲塔2基を中段の飛行甲板上に並列に装備したほか、艦尾よりの中甲板には20センチ単装砲を片舷3門ずつケースメート式に配置していた。空母に20センチ砲を装備した例としては、他にアメリカのレキシントン、サラトガの2隻があるが、米空母はアイランドの前後に連装砲塔を2基ずつ背負式に配置していたため、砲数は8門であったが、全砲片舷に指向できるのに対し、赤城、加賀の片舷砲力は5門にすぎなかった。ワシントン条約における空母の備砲制限は、次のようなものであった。口径は8インチ(20.3センチ)以下で、6インチ(15.2センチ)以上の砲を有するときは5インチ(12.7センチ)以上の砲の合計は10門以内(ただし27,000トン以上の艦は8門以内)。すなわち赤城、加賀の両艦は基準排水量が26,900トンだったので、条約制限ぎりぎりの砲熕兵装を有したわけである。しかし赤城は当初、中甲板に前述の砲数の20センチ砲のほか、12センチ単装砲を片舷3基ずつケースメート式に配置する計画をもち、しかも戦時にはこれを20センチ単装砲に換装するつもりでいた。実際問題としては12センチ砲は装備されなかったが、将来の20センチ方搭載を考慮していたことは、写真などでケースメート付近を見ていただければわかるであろう。加賀の場合も同様で、後の近代化改装のおり、この場所に20センチ単装砲を片舷2基ずつ装備したことは、周知の通りである。赤城、加賀の両艦が装備した20センチ砲は、型式名を五〇口径三年式1号20センチ砲といい、新造時の古鷹型や青葉型巡洋艦の主砲と同型である。この砲の性能諸元などについては、別の機会に譲るが、ケースメート式20センチ砲架は、他に例がないので少し述べてみよう。砲架の型式は円錐台砲架といい、通常15センチ以下の砲に用いられるもので、発砲時には相当大きな力が砲架にかかるため、20センチ砲がその限度といわれている。日本の戦艦用14センチ副砲砲架はその代表的例である。なお、近代化改装後の20センチ砲の搭載数は、赤城が単装6基、加賀が単装10基となった。
(2)12センチ高角砲=赤城、加賀の両艦が搭載した高角砲は当時最新式のもので、型式名を四五口径一〇年式12センチG型砲架を原型として開発された。砲架の型式はA2型と呼称され、砲の操縦は油圧式になっていた。この砲の性能諸元も別の機会に譲ることにするが、これを最後まで搭載していたのは赤城だけで、加賀の方は近代化改装のおりに四〇口径八九式12.7センチ連装高角砲に換装されている。

